この国に「希望」はある。だが、「うまく語れない」、それだけだ。
「この国には何でもある。だが、希望だけがない」
村上龍はかつて著書の中でこう語った。出版から10年経った今でも、この言葉は日本経済を的確に表しているといわれる。
だが、私は違うと思う。
今の日本経済を描写するとしたらこうだ。
- この国に「希望」はある。だが、全ての人がうまくは「語れない」だけだと。
これを理解するには、まず国を動かす4つのエンジンについて語る必要がある。
国は「4つのエンジン」で動いている。
国や会社といった、全ての“有機的な組織”は「4つのエンジン」で動いている。
・経済的価値の追求……「より金持ちになる/餓死したくない」というような経済的な価値を増殖・修復させるためのエンジン
・民族的価値の追求……「コミュニティの中で尊敬を得る/組織の中で、孤立したくない」というような民族としての価値を増殖・修復させるためのエンジン
国や会社といった“マクロの組織”も結局のところ、個人(ミクロ)の集合体でしかない。そしてほとんどの人間は「金持ちになりたい①」し、「貧困を抜け出したい②」し、「コミュニティ内の尊敬を受けたい③」し、「村八分を避けたい④」。なぜならこれらは全て「生物として生き残り、繁殖する可能性」にダイレクトに直結しているからだ。
そして個人の集合体である「国のアクション」も、この4つのエンジンを使って説明できる。アメリカを見てみたい。
アメリカは今「増加」から、「修復」へ舵を切った。
思えば、アメリカは「経済」と「民族」の両輪のエンジンを使って、うまく国を成長させてきた。
例えば、“南北戦争”は、北部と南部に分断していたアメリカにおける民族的な価値の「修復」であると同時に、「奴隷を使った農業」と「近代的な工業」の経済的な対立の統合作業でもあった。—①
あるいは、2001年から始まったアメリカ(がいうところ)の「テロとの戦い」は、「石油」という経済的な価値を狙った行為でありつつ、そのエネルギーとして使われたのは「アメリカイズムの布教活動」だった。アメリカ的な「民主主義・資本主義が善である」というものだ。—③
そして今。時は流れ、2017年、トランプ政権が語る、“Make America Great Again(もう一度アメリカを偉大に)”というフレーズは「アメリカ人が思う、アメリカ”民族“としての誇り」を呼び起こす強烈なエンジンとして活用されているのは間違いない。—④
私個人として、アメリカ経済の良し悪しを論じる気は全くないし、資格もない。ただ言いたいのはこうだ。
- 国や組織のほとんどのアクションは「4つのエンジン」で説明できる。
組織はどこかで必ず、「民族的価値」を追求しはじめる
4つのエンジンはそれぞれが相互に結びついているが、最も大事なのは「経済」と「民族」の両輪をタイミングよく使うことにある。
その理由は「経済のエンジン」には頭打ちがくること(逓減効果)にある。分かりやすくいうと、普通の人は、一定以上お金を持つと「それ以上はそんなにお金を求めなくなる」のと同じ理屈で、卑近な例だと、年収が800〜900万円以上になると年収の増減が幸せ度と相関しなくなるといった類の話が分かりやすい。もう少しマクロの観点では、内閣府が出している「幸福感の推移」と日本GDPの推移を見てみれば分かる。
いずれにしても、一言でいうならば
「経済的に豊かになると、組織は“経済のエンジン”だけでは動かなくなる」
ということだ。裏を返せば「民族のエンジン」が必要になるのだ。
ちなみに、この仕組みは国という組織に限らず、企業も同様だ。組織は一定以上豊かになると「自社のDNAを、他の企業へ拡大」しはじめる傾向にある。つまり「組織を強くすること自体」に動き出すのだ。極論をいえば、“M&A”すらも、自社の組織を大きくするという意味で「民族的価値の増加」だと解釈できる。
「エンジンが全て止まった」。それが、今の日本。
では、今の日本はどういう状態なのだろうか?
結論からいうと、今の日本は「全エンジンが止まりつつある状態」にある。
高度経済成長期までの日本は分かりやすかった。第二次世界大戦で経済的にも民族的にも大ダメージを受けた日本は修復作業を急ぐ必要があった。我々は、より豊かになることが必要であったし、その後の高度経済成長期は「Japan as No1(日本はNo1である))の証明作業でもあった。常に「経済」と「民族」の両方のエンジンが動いていた。
しかし、経済的に豊かになった今、日本は「経済のエンジン」も「民族のエンジン」も止まりつつあり、もう一度エンジンをかけ直すことが必要になってきたのだ。
その意味で「東日本大震災」は我々の価値観を見直す機会になった。東日本大震災に見せた日本人の一致団結の姿勢は、まさに「民族的価値の修復活動」だった。あの自然災害は単なる「物質の破壊」ではなく、平和に暮らす「日本人」という民族への攻撃だった。そして我々は、破壊されたものを、修復しようと死力を尽くした。「経済のエンジン」と「民族のエンジン」が再びドライブしたのだ。
宗教がないことが、ここへきて「日本失速」のボトルネックになった
だが、震災は常に起こるわけではないし、当然それを誰も望まない。
大事なのは、“平時”において日本のエンジンを動かしてくれるものはどこにあるのか? ということだ。
本来、そのキーは「宗教」にあることが多い。
言わずもがなだが、「宗教」は民族的価値と極めて強い関係を持つ。というか、ユダヤ教のように、そもそも民族であるためには「特定の宗教」に所属している必要があることも多い。そして宗教は「民族のエンジン」に大義を与え、国を強く動かすことも多い。
だが日本人で「自分の宗教」を認識している人は極めて少なく、つまり「宗教」を軸にした民族のエンジンを持っていないのだ。つまり、この状態、「平時のエンジンがない状態」こそが、村上龍が「この国には希望がない」と語った日本の状態だと感じるのだ。
エンジンがないと、「変化をおこしにくい」。それが問題
では、「民族のエンジンがないこと」の、何が問題なのだろうか?
結論からいうと「変化を起こしにくいこと」にある。
より具体的には「労働環境の変化を起こしにくい」のだ。そもそも「労働の価値観」は文化的価値に紐付かない限り変革しえないからだ。
歴史を見てみよう。
かつて、マックス・ヴェーバーは著書の中で、カルヴァン派(キリスト教の一派)の間で近代資本主義が発達した背景を語った。彼ら(カルヴァン派)が提示した「労働や財産を善とする」という概念は、それまでの「労働の価値観」を劇的に変化させた。具体的には「富を増やすことは、いいことだ」という価値観への転換を起こした。結果、「資本主義」の考えは爆発的に勢力を広げた。
そもそも、(上述の通り)経済的エンジンは一定以上豊かになると、それ単体ではワークしづらい。そのために、大義名分に近い別のエンジンが必要になる。これをあえて曲解して語るのであれば、「宗教を背景にするような強烈な民族的価値と結びつかない限り、変化を起ここしにくくなる」といえる。
だから、現状の日本で「働き方改革」だけを唱えても、人々は動くわけがないのだ。
では、すべてのエンジンが止まりつつある日本はどこに希望を見出すべきなのだろうか。答えは「経済」と「民族」がクロスする部分だ。
日本が挑むべきなのは、LとGの戦いではなく、NとSの戦いである
最近のマクロ経済は「ローカル(L)」と「グローバリズム(G)」という対立軸で語られることが多い。「ローカル化」とは、国内や地域を第一とする考え方であり、「グローバリズム化」とは、国境を越えた世界展開を第一とする考え方である。だが、私が個人的に思うのは、現代の対立は「ローカル(L)とグローバル(G)」ではなく「NとS」にあるということだ。
ここでいう
・Nとは「農耕民族」
・Sとは「狩猟民族」を指す。
かつて、私がトヨタ自動車に取材した時に印象的な話があった。
いわく、トヨタが世界に証明しようとしているのは「農耕民族としての価値」だというのだ。トヨタは現地に工場を作ることで有名だが、その理由はまさにここにある。トヨタの「KAIZEN」と「地産地消」という考えはその国の富の総量を増やす。例えるなら「そもそもの100のパイを、110にする。その上で、55ずつ分け合う」という考え方になる。一方で、欧米系に代表される「狩猟民族的な考え方」は、100のパイを奪い合うという考えだ。自分のパイを50から55に増やしたければ、誰かから5を奪うということになる。
言い換えれば、「トヨタ」というブランドが証明しようとしているのは、
「日本企業が来ると、国のパイが増え、全員が豊かになる」
という農耕民族的な生き方だというのだ。
「農耕民族として、長期的に正しいことをする」という勝ちパターンから外れた日本
思い返せば、何もこれは、現代の話だけではない。よくよく考えれば、松下幸之助の「水道哲学」も農耕民族的(N)の考え方に近かった。松下幸之助は、かつて白物家電が高価で多くの人の手に届かなかった時代に、蛇口をひねれば水が出るように「当たり前に人々の手に家電が届くこと」を目標にしていた。それはパイを奪い合うという狩猟民族の考え方ではなく、極めて「農耕民族的な考え方」だ。
そして私が感じるのは、歴史を振り返り、日本が真に尊敬され憧れられるときはいつも「農耕民族として長期的に正しいこと」を目指しているときだったと感じる。つまり、みんなで豊かになるというNの考え方で動いているときだ。しかし、いつしかその思想はなくなり、経済が「単なるグローバル化か、ローカル化か」で語られるようになり、日本の勝ちパターンから外れてしまったと感じるのだ。
希望とは、意志だ。
そろそろ終わりにしたい。
もしも日本が世界に対してリーダーシップを発揮するとしたら、その活躍の場はLとGの対立軸にはない。NとSの戦いにこそあると思うのだ。それはこれまでパナソニックやトヨタが世界に証明してきた我々の民族的な考え方に近い。
具体的には
「日本企業がくると、パイが大きくなる」
という農耕民族的な生き方。これを今こそ思い返し、世界に対してリーダーシップを取るべきだと思う。
もちろん我々がそうすべき理由はない。希望とは事実ではない、意志でしかないからだ。しかし、だからこそ、意志を示す人物が必要だと感じるのだ。
END
北野唯我(KEN)
(株)ワンキャリアの執行役員兼HR領域のジャーナリスト。主な記事に『ゴールドマンサックスを選ぶ理由が僕には見当たらなかった』『田原総一朗vs編集長KEN:大企業は面白い仕事ができない、はウソか、真実か』 『早期内定のトリセツ(日本経済新聞社/寄稿)』など。