「おっす、オラ、ダーウィン!」ジョジョとH✕Hに見るヒーロー進化論
少年は考えていた。強さとはなにか。元々喘息持ちに生まれた彼にとって「強さの定義」は死活問題であった。医療の進化により生命は進化のプロセスを大きく変えたが、それは単なる「生存確率の変化」ではなかった。これまでは生きたくても生きることができなかった生物、生命体が世界に飛び放たれることで人類の多様性は飛躍的に向上した。肉体的な強さはかつてほど意味を持たなくなっていき、われわれはもはや肉を食うために殺しあう必要はなくなった。むしろトングを握り肉を分かち合うことさえできるようになった。
すなわち、人類は否が応でも「強さとは何か」を考えざるを得ないフェーズにあった− 少なくとも彼はそう感じていた。
彼自身は、そもそも、人類の「強さ」に対する価値観が変わったのは、これまで3度あったと思っていた。一度はダーウィンの進化論。ダーウィンは個体として強い生物ではなく、変化に対応できる生物だけが生き残れると語った。生き残るという意味で「強さ」の価値観を変えた。
2つは医療と福祉の登場だった。社会福祉の制度が生まれることで、人々はそれまで単体では食料にありつくことが難しかった生命体に肉を与えるようになった。結果として人類は多様性を広げる大きなチャンスを得た。
そんな彼はダーウィンに対して尊敬の念を抱いていたが、しかし一方で彼が強さを語る上で1つだけ足りないものがあった、それは一般的にはこう呼ばれていた。
ヒーロー (英雄)
彼にとって“進化論”は確かに素晴らしい理論であった。だがそれは「世代間を越える強さ」について言及したものであって、個体としての強さについて語るものではなかった。つまり、彼には自分が憧れられるような「等身大の強さ」が必要だったのだ。言い換えれば「ヒーロー」だった。
そんな、ある日、彼の目の前にメシアとなる男が現れた。
その名は、空条承太郎、「ジョジョの奇妙な冒険」の主人公である。彼にとって「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくるキャラクター達はまさにヒーローであった。
なぜか?
なぜなら
— 「ジョジョ」の登場は、それまで「ドラゴンボール」が支配していた“強さ”
その概念を決定的に変えたから、である。
どういうことか?
「ドラゴンボール以前」と「ジョジョ以後」の世界で「強さ」に関する概念は全くかわった
さて私は、格闘系の漫画は2つの世界に分けられると思っている。
・ドラゴンボール以前の世界
・ジョジョ以後の世界
である。そしてそれは「強さに対する捉え方」によって二分されている。
まず、ドラゴンボールは「強さ」が単一的な指標で計られる。スカウターによって、戦闘能力は計られることができるし、天下一武道会は、「画一的なルールのもとで、一番強いやつを決める世界」だ。だが、このドラゴンボール的世界には決定的な致命傷がある。それは
強さがインフレを起こすこと
である。ストーリーが進めば進むほど、強さは限りなく高くなっていかざるをえない。そして終盤になると、もはや全てのキャラが活躍するチャンスを与えることは不可能になる。一方でジョジョの世界は違う。
ジョジョのキャラクターのほとんどは「特定の条件下での強さ」である。各キャラクターは「自分の能力が一番活躍する条件」を知っている。反対にいえば「どういう状況であれば、自分が弱いか」を知っている。したがって、キャラクターは自分の頭を使って、なんとしてでも勝てる状況を作り出す。全てのキャラクターが後半になっても「活躍するチャンス」を持つことができるわけだ。言い換えれば、インフレが起きない。
そして、これは「漫画の世界」ではなく、実世界においても同じことが言える。
世代間を越える強さは「多様性」からしか生まれないことを、ダーウィンが示した
ダーウィンは、世代を超えて生き続ける生物は「変化に対応できるもの」だと語った。例えば、キリンという生物が生き残り続けられたのは「首が長いキリン」もいれば「首が短いキリン」もおり、首が長いキリンは高いところの食料にありつける可能性が高かったということだ。だが、これは彼の理論の一側面でしかない。彼の理論の別の意味は「世代間を越える強さは、多様性からしか生まれない」ということだ。裏を返せば、
— 個体差を持った生命体のみが、世代を超えていける
ということだと私は解釈している。
だが、ここまで聞いておかしいと思わないだろうか? ここまでの解釈が正しいとすれば、人間という生き物が生き残れてきたのは「多様性があったから」であり、人間はすべからく「多様性を持ち、それを愛する性質」があってもおかしくない。だが現実世界では人は「多様性を排除しようとする」傾向にもある。
ということは真の問題は別にある。それは、
「何が、組織体の多様性を殺すのか?」
である。
多様性を殺すのは「制約なき強さ」である
結論からいうと、多様性を殺すものは
「制約なき強さ」
だと私は思うようになった。ドラゴンボールの世界では、強さは絶対的であり、ハッキリ言って「孫悟空」以外は不要である。ヤムチャやクリリンに活躍の場は残念だけど、ない。
一方で、絶対的な強さが存在しない、ジョジョの世界には「どんな人でも活躍できる場」がある。では一体、何が両者の違いなのかというと、それは
「強さに、対価が必要であるか、どうか」
である。例えば「鋼の錬金術」と「ハンターハンター」が分かりやすいが、その世界では、強さは常に“対価”を必要している。ハンターハンターに出てくるキャラクター達は、念能力という“特殊能力”を使って戦うが、その強い特殊能力を持つためには「なんらかの犠牲」「対価」が必要なのである。したがってどんなキャラクターでも永久に活躍する場を持ち続けられる。状況さえ整えれば、彼らに勝つことができるからだ。つまり私はある時から
多様性を殺すのは「制約なき強さ」ではないか
と思うようになったのだ。
資本主義の世界は、”いくらでも儲け続けられる”という意味で「制約なき強さ」を認めるゲーム
そして、これは現代の世界においても全く同じだと私は感じる。資本主義の世界は、いわずもがな「富めるものが、さらに富む」世界であり、トマピケティはこれを
r > g
というシンプルな公式で示した。私自身は資本主義がどうとか、語るつもりはないし、資格はない。だがタックスヘブンがある世界というのは、強さという観点で見ると「制約なき強さ」を認めるゲームに見える。その意味で多様性を殺す方向に進むのは間違いないと思うのだ。
単一指標による強さを求めるのであれば、「スピードを極めること」しかない
さてここまで「ジョジョ」と「ハンターハンター」を、あたかも多様性を褒め称える漫画かのように、語ってきた。だが、ある時、私は改めて衝撃的な真実に気づいてしまった。それは
空条承太郎と、ネテロって、結局、同じじゃないか?
ということだった。2つの漫画を知らない方にも説明すると、この両者のキャラクターは、各漫画における最強のキャラクターとして描かれている。空条承太郎はジョジョのキャラクターであり、ネテロはH✕Hのキャラクターだ。そしてこの両者に共通する強さはなにか。それは
最速のスピードを持っていること
である。2つのキャラクターは圧倒的に「攻撃のスピードが速い」のだ。空条承太郎は時を置き去りにするスピードで敵を攻撃できる。一方でネテロも、音を置き去りにするスピードで敵への攻撃ができる。つまり私が両者のキャラクターから共通点として感じたのは
「スピード」だけは全世界で通用する
ということだった。だから、もしもネテロが、ワンピースに出ても、ドラゴンボールに出てもおそらく最強になりえる可能性が高い。「スピード」という概念は、どんな世界、どんな時代でも存在するからである。つまり世代間を超える意味で強くあるために、生命体が投資すべきなのは
「多様性」と「スピード」
この二点に集約されるのではないかと感じるのだ。
最後に:
そろそろ終わりにしたい。
何がいいたいのか?
それは
— 現代の社会はありもしない「第四の“強さ”」を求め、迷走しているのではないか?
ということだ。資本主義社会の中で勝ち抜いたトランプの登場で、移民の国として多様性を持ち合わせてきたアメリカは、むしろ多様性を排除する方向へ進んだ。人々は「強さ」を感じる一方で、「その“強さ”への違和感」を感じ始めた。その正体とは、我々がありもしない「第四の“強さ”」を目指しており、迷走していることへの違和感ではないかと感じるのだ。言い換えれば我々はジョジョが起こした革命を忘れ、再度、「ドラゴンボール的強さの時代」に逆進しようとしているのではないか、と感じるのだ。
さて最後に改めて問いたい。
あなたにとっての「強さ」とは一体なんなのか?
……私は少なくともスカウターを壊すことではない、と思うのだが。
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