『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

昼過ぎの面接は避けよ。面接官は眠い【本音編】

 

「はぁー……これから、面接か」

 

そう考えると、僕は憂鬱になった。仕事が比較的好きな自分であるが、唯一苦手な仕事がある。それは面接である。

 

ここでいう面接とは、「人を採る側」の面接を指す。ため息をつきながら僕は面接会場に向かった。

 

 「それでは、自己紹介からお願いします……」

 

 「はい、私は〜」

 

会社にとって重要な仕事である採用面接。だが、面接ほど難しい業務もない。特に昼過ぎの面接は苦手で、ランチで肉を食べたとき(←ほぼ毎日)は、胃腸の消化に血流が追いつかずに、猛烈な眠さに襲われる。だが、せっかく候補者の方から貴重な時間をもらっているのだから、僕は太ももを全力でつねりながら、自分にこう言い聞かせる。

 

 「せっかく、貴重な時間をもらったのだから、全力で向き合おう」

 

ところがだ。それでも10回中5回ぐらいは、あまりにも眠くなるのだ。その理由はシンプルで

 

 「明らかに会社のHPすら見ていない人が、結構いる」のだ。

 

 

個人的には行きの電車のスマホでもいいから、少なくとも会社のHPぐらいは見てきてほしいなぁ、と思う。こういうことが往々にしてあるので、僕は「志望動機」をほとんど聞かない。加えて結論ファーストで話してくれない社会人も多い。よって猛烈な眠さと戦いながら、面接を行うことも多い。

  

 

 

そんなある日、僕はコペルニクス的転回をすることになった。

 

 「そもそも、志望動機って候補者が作るべきものなのか?」

 

という疑念が浮かんだのだ。

 

一般的に「志望動機」は候補者が作るべきものだと捉えられているが、それは本当なのか? 実は、志望動機って、面接官と候補者が一緒に作るべきものなのではないかということだ。

 

就活は結婚で例えられることが多いが、志望動機というのは例えるなら「相手と結婚したい理由」だ。

 

恋愛であれば、外見やステータスといった、表層的な理由で一方的に「付き合ってください」というのはありえる。だが、結婚となると、一緒にいる理由は両者で作り上げていくものだ。そして、これを採用面接で例えるなら、志望動機は「面接のプロセスで、面接官と候補者が一緒に作り上げるべきもの」なわけだ。

 

……何が言いたいか?

 

それは3つだ。

 

ポイント1:昼過ぎの面接は避けよ。面接官は眠い

 

極めて実用的なアドバイスの1つ目として、面接は昼過ぎは避けた方がいいということだ。面接官はランチに肉を食べているかもしれない。動物性のタンパク質は、4~6時間消化時間がかかる。これを踏まえると、午前か、午後18時以降が狙い目だろう。

 

ポイント2:結論ファーストは礼儀。メモるのが大変

 

結論ファーストというのは、ビジネスの場では「礼儀」に近い。面接官は面接結果を社内に共有し、報告する義務がある。結論ファーストじゃないと、リアルな話、メモるのが大変だ。結論ファーストは、候補者にとってのマナーだ。

 

ポイント3:「志望動機」は共に作り上げるもの(本来は)

ベンチャーにおける志望動機と、大企業の新卒採用における志望動機は意味合いが異なることが多い。前者は「共に作り上げるもの」で、後者は「ふるい分けるもの」に近い。

 

……さて、最後に、今月から専門誌で連載を持つことになりました。第一弾のWEB版が、ちょうど本日公開されました。

 

at-jinji.jp

 

人材領域は今、転換期にあります。かつて「新卒ドリーム」と言われたほど、企業にとって新卒で人を採ることは一つの夢でした。ですが、最近は中途人材の採用価格が下がったことと、優秀な新卒の価格が上がったことによって「本当に会社が新卒を採るべきかどうか?」はわからない状態になりました。

 

いいかえれば、日系企業は、下手をすると中途より高くつくであろう採用費をかけてまで「新卒を採るべきなのか?」を冷静に問われるフェーズに入っているわけです。記事では、その激変期をどうやって乗り越えるべきか? について書いています。

  

ぜひご一読ください。

 

at-jinji.jp

  
 

地方から人が消えるのは「日本のあるべき生存戦略」

 

—   生物は時として「理解不能な行動」を取ることがある。

 

東京には毎年45万人の人間が全国から集まってくる。一方で、過疎地から人はどんどん離れていく。一体、この“ねじれ”は何によって起きているのだろうか?

 

この現象は「日本を1個の生き物」として捉えると理が叶っている。生物は死を意識したとき、なんとかして「生き残ろう」とするが、今、日本の姿もそれに近い。つまり

 

 東京に人口が集中するのは「日本という生き物が、強みを残すための生存戦略に見えるのだ。

 

……どういうことか?                                                                    

 

日本の最大の強みは“生産性”じゃなく、「単位面積あたりのGDP

 

「日本の強みとはなにか」

 

と聞かれたらあなたはなんと答えるだろうか。結論からいうと、それは間違いなく「単位面積あたりのGDPが高いこと」にある。

 

言い換えれば、日本とは“物理的な意味で”経済が高度に集中した国だ。現に、東京の都市別GDPは世界一だと言われているし、いくつかのデータでは日本の単位面積あたりのGDPの高さが証明されている。

 

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 http://adc-japan.com/thailand/all-about-thailand/1062.html

(参考)日本の1平方kmあたりのGDPは高い

 

 

もう少し感覚的にみてみよう。例えば、東京から、30km圏内には千葉・埼玉・神奈川が存在しているが、実は“わずか30km圏内に、1,000万人級の都市が複数ある”というのは考えてみるとすごい話だ。例えば、NYのマンハッタンから30kmなんて、ほとんどどこにも行けない。ニューヨークに比較的近い、ペンシルバニア州(人口1,300万人)さえ130kmの距離にある。

 

この130kmという距離は、日本人にとっては「旅行」や「出張」の感覚に近い(東京から静岡の距離が146km)。つまり日本は「物理的に経済が集中している」わけだ。

 

そして、これは2つのメリットをもたらした。一つは、資本主義を成り立たせるための土台が作りやすいことにある。“物理的に近い”ということは、初等経済において実は極めて重要な要素だ。これは発展途上国で働いたことがある人が、「言われた仕事が納期通りにこないこと」が、いかにビジネスを停滞させるかを痛感する例がわかりやすい。

 

そもそも、資本主義がスムーズに成り立つためには「受発注通りに、やりとりが行われること。または、それが期待できること」が前提にあり、初等経済において「物理的な距離が近いこと」は、相手の裏切りを止めるための強烈な抑止力になる。マイクロファイナンスに代表されるように、“地元の人同士でビジネスを始める”ことは経済が発展する上で極めて重要なプロセスなわけだ。

 

そして、“物理的に経済が集中していること”のもう1つの利点は「スケールメリットを受け取りやすい」という点だ。思えば、インターネット登場以前の、日本の勝ちパターンは、首都圏→地方展開→海外展開というスケールメリットを徐々に活かして、輸出することだった。あるいは、コスト面においても企業は、東京に本社をおけば、ほとんどのToB向けサービスを安価かつ高速で受け取ることができた。つまり日本は、「人口3000万人級の関東圏」と「1.2億人の人口」を組み合わせ、スケールメリットを段階的に享受してきたわけだ。これが日本の強さだった。

 

だが、テクノロジーの進化によって様子は変わった。

 

インターネットの登場によって、物理的な意味で経済が集中していることのメリットは以前より弱くなった。1970年には47%しかなかった「サービス産業」のGDP割合は、2010年時点で71%に及んだ。つまり「インターネット時代で日本が苦戦する」のは、クリエイティビティがないとかそういうことではなく、単に“強みが弱まったこと”も大きいわけだ。

 

東京はいわば、日本の「プロフィットセンター」

 

そして今、東京に人口が集中する姿は、私には、日本が必死になって、強みを残し、生き残ろうとしている姿に見える。大げさに聞こえるかもしれないが、これは経営のアナロジーで考えるとわかりやすい。一般的に、企業には目的が違う2つの組織が混在している。

 

プロフィットセンター:売上を立てることが、目的の組織

コストセンター:組織を効率よく動かすことが、目的の組織

 

そして国にとって “売上を立てる”とは、「外貨を稼ぐこと」であり、これは日本全体が豊かになるためには絶対に必要なことだ。もしも、国が外貨を稼げなければ、円安になり、輸入品を中心に生活コストは爆増する。加えて、自力で稼ぐことができない地域に税金でお金を回すこともできない。結果的に困るのは「地方」と「貧困層」になる。東京はいわば「日本のプロフィットセンター」であり、日本の外貨を稼ぐ役割を持っているわけだ。

 

一方で、地方は地方で「コストセンター」として役割が当然ある。そしてコストセンターは、その役割上、出来るだけ少人数で機能を果たした方がいい。したがって日本経済の成長が見込めない限り、コストセンターである地方から、東京に人が流れるのは当然な流れなわけだ。あるいは、別の見方をすれば、今の日本は国全体が「東京をプロフィットセンターとした、職能別組織」に移転しようとしているとも捉えられるわけだ。

 

経済の効率性は、3つの要素で決まる。

 

さて、最後に、私には夢がある。

 

それは「国家戦略の本を書くこと」だ。具体的には、いかにして貧しい国が早いスピードで豊かな国になれるか?という謎を解き明かし、それを体系化することにある。それがゆえに普段から、国や企業というのを、「ひとつの生命体」として捉え、行動を理解しようとする癖がある。

 

そして今、国の経済効率を3つの観点で捉えている。

 

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しばしば、日本経済を語る際は、“労働生産性”がメインの話題になるが、そもそも、経済の効率性は“労働生産性”だけでは決まらない。というよりむしろ、別記事で論じたように、どの産業に何人置くか?という人員配置の方がインパクトがでかいこともある。現に今の日本は「一人当たりのGDP」は産業間で最大20倍以上の差を生んでいる。

 

上記の3つの要素は、“国家”という枠組みで見ると、突飛な話に聞こえるかもしれないが、“経営”の観点から当たり前の話であり、

 

どの事業セグメントで (A)

どれだけの売上規模で (S)

従業員がどれだけ日々、効率的に働くか (M)

 

 

という要素で、組織の効率性が決まるのは、当たり前に近い話だ。そして、このフレームに当てはめれば、東京一極化の流れは、生命体として当然の行動に見える。つまり、東京一極化の動きは、

 

 スケールメリットという強みを残そうとする、

 日本という生物の生き残りをかけた生命活動

 

のように見えるのだ。皆さんはどう感じるだろうか?

もうすぐ「30歳」ですが、20代前半より今の方が遥かに楽しいよ。

俺は彼女の方をまっすぐ見つめながら、こう聞いた。

 

「もうすぐ30歳になる前、どんなこと考えてた?」

 

そう、俺は今29歳だ。もうすぐ「30歳になること」に気づいたその日から、俺はいろんな人に「30歳を楽しむためのコツ」をヒアリングをしていた。彼女は答えた。

 

「絶望的な気分だった」

「えっ……なぜ?」

「女は28歳までだから、って何度も聞いてきたから」

 

あぁ、これか、と俺は思った。そして、その後の「30代になると、いかにつまらなくなるか」という話の展開を予測したが、彼女は間髪入れずこう語った。

 

「でも、実際なってみると、全然違った」

「違う?」

「30代の方が遥かに楽しい」

 

いわく、彼女は30代の方が、仕事も恋愛も遥かに楽しいと語るのだ。俺は、それを満面の笑みで語る彼女の姿を見ながら、だから俺はこの女が好きなのだと痛感した。そして2つのことを考えた。1つは「一体、こうやって自信をもって語れる女性が日本に何人ぐらいいるのだろうか?」ということ。“少ない”という直感とともに、反対に、東京カレンダーのようなしょうもないコンテンツに隠されているが、「意外と沢山いるのではないか」とも思った。

 

2つ目は、もっと根源的なものだった、それは

 

「年を取ること」は、一体どうあるべきなのか?

 

ということだった。30歳を目前に、俺は「年を取ること」、そのものの“あるべき姿”を考えるようになった。

 

就労感を犠牲にし、大人になる - それが日本?

 

多くの人にとっての“父親像”と同様に、俺にとって父は憧れの存在だった。今でも覚えているが、小学2年の夏、父が勤める会社の同僚たちが行う草野球を観に行くことがあった。もともと運動神経抜群の父は、4番でピッチャー。父が大きな野原に特大のホームランを打ち、ベースを駆け抜ける姿を見て、俺は心を躍らせた。

 

「この人は何でもできる人だ!」と。

 

だが、いつ頃だっただろうか。

 

家に帰った父が少しずつ、会社の愚痴を言うようになり、仕事の話で笑わなくなった。中学生になった俺はそれなりに幼かったが、それを「ダサい」と一言で語るほどには、未熟ではなかった。家族の財政を支えてくれていることは十分に感じていたのだ。

 

ただ、そんな彼の背中を見て俺は一つの事実を心に刻み込んだ。

 

「仕事とは、辛くて、大変なものなんだ」と。

 

そして、俺は“スーパーマンではない父”を受け入れ、それでも愛する努力をするようになった。父と俺は、就労感を犠牲にし、大人になったのだ。だが今になって思う。

 

 “大人になる”とは、就労感を犠牲にすることと同義だったのだろうか?と。

 

経済はこれ以上「豊かになるべき」なのか、俺にはわからない。

 

「年を取るとは、“どうあるべき”なのか?」

 

時は経ち、29歳になった俺は、仕事で日本有数ITベンチャーの社員に取材を行うことがあった。インタビューの中で、ある人がこういった。

 

 日本が今抱える問題は、すべて、“厚労省”が抱えている

 

つまり、彼の言外に含むのは、“経済産業省ではない”ということだ。俺はなるほどな、と思った。というのも、ほとんどの経済施策は、“経済的に豊かになること”を目的においている。だが、「日本は、これ以上、本当に豊かになるべきなのか?」と聞かれたら、自信をもってイエスとは俺は言えない。その時、日本が抱える課題が明確に見えた。それは

 

 “若さ”と、“年を取ること”に対する、考え方が、成熟していないこと

 

だ。多くの国には宗教が存在し、宗教の多くは「年を取ること」に対する指針が明確に存在する。だが無宗教が大多数であり、年功序列システムで生きてきた私たちは、「年を取ることに対する、スタンスがない」のだ。我々は社会人や恋人である前に、歳をとる”考える生物”であるにも関わらず、だ。

 

結果的に、若いということは、単なる“生物的な若々しさ”でしか評価されず、“年を取ることは単に、生物的に衰え、社会人として生きること”で評価されるしかないのだ。それがすべての課題ではないかと感じるようになったわけだ。

 

さてそろそろ終わりにしたい。

 

 30歳の前夜、あなたは、なにを考えていたのだろうか?

 

 あるいは、いずれ訪れるその日に、何を感じていたいのだろうか。

 

意味不明な大人の言葉に惑わされないでほしい。30代の方が遥かに楽しいと語る女性は山ほどいるし、仕事はもっと楽しくなる。ただ、それだけだ。