『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

価値のあるもの、は2種類ある。ークリエイターの役割は「公園」を併設すること

価値のあるもの、は2種類ある。
 

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一つは、資本主義に「のりやすくて」、価値のあるもの。
 
二つは、資本主義に「のりづらく」、価値のあるものだ。
 
前者(資本主義にのりやすいもの)は、わかりやすい。サービスや商品。こういったものは分かりやすく「役に立つ」。お金になりやすい。そのため、市場原理とは相性がいい。
 
一方で、後者は、ある意味で分かりづらい。値段がつけづらいからだ。たとえば、青春の日々、というのは、多くの人にとって価値があるだろうが、それは「いくらなのか?」と問われるとすごく難しい。
 
ただ、人生の幸福を考える上で、この二つは明らかに「OR」の関係ではなく、「AND」の関係である。つまり「両方とも大切」ということだ。
 
これをわたしは
 
「猫と公園問題」
 
と読んでいる。
 
猫?
公園?
 
そうだ。猫と公園、この二つは、まさに後者。つまり、資本主義に乗りづらいが「価値のあるもの」の象徴だと思うからだ。
 
以前、NewsPicksという経済メディアで、佐藤優さんと対談させていただくことがあった。佐藤優さんは、作家で元外交官。『国家の罠』という衝撃的なデビュー作などで、世の中にセンセーショナルを起こした方だ。
 
その佐藤さんは、愛猫家として知られている。わたしはこのエピソードを知った時になんだかほっこりしたと共に、佐藤さんの人柄を垣間見れたように思えた。猫好きに悪い人はいない気がする。
そんな謎の理屈から、安心感を覚えた。
 
話を戻して
 
「猫というのは、世界の象徴である」
 
というのが、私が昔から感じていたことだ。そう、猫は世界の象徴なのだと思っている。
 
どういうことか?
 
これは、二つの意味からなる。
 
一つは、「猫とは、自由の象徴」だと思うからだ。正確にいうと、「人間が憧れる形」での自由の象徴という意味だ。
 
猫という存在は、わがままで、ときに甘えん坊で、しかし、すこし冷たい。自由なようにみえる。
 
ただその猫も、結局、人間に飼われている、という意味で実はレールに載っている。これは私たちがまさに憧れる「ギリギリの自由」という概念に近いのではないか。
 
言わずもがな、私たちはおそろしく便利な世界に生きている。温かい部屋に、安くて美味しいサイゼリア(←)。ポチッと押せば、すぐ届く商品。
 
資本主義社会の恩恵を味わいながらも、「自由でひょうひょうとしてみたい」。これは、一生懸命働く人であればあるほど、憧れる「ギリギリの自由」の象徴、ということだ。
 
猫という存在が面白いとわたしが思う理由の、もう一つは「役に立たないが、価値のあるもの」の象徴としてだ。
 
かわいいペット、というと、犬も同じように人気がある。ただ、犬は形は変えど、役に立つ側面がある。危険を察知して、吠えるという機能。無償の愛で、飼い主を心配する、という優しさ。犬を通した、人同士の交流。
 
一方で猫は、犬ほどは役に立つ側面はない。だが、それは価値があるか?とは別の話だ。猫好きの人にとって、猫のいる生活とは幸せを生み出す。その意味で「幸福」や「人生の豊かさ」には明らかに影響を与えてくれる。
 
猫好きな人からすると、猫がいない世界とは、幸せがない世界=空虚、という意味なのかもしれない。
 
ちなみに、わたしが台湾に留学していたとき、「猫空(まおこん)」という地域に留学生、皆でいったことがあった。猫空は、お茶の産地だが、「猫が空」=猫がいない、意味にもとれる。面白い名前だな、と思った記憶がある。
 
同様に、少し前に「世界から猫が消えたならという映画が流行ったが、やはり「猫とは、世界の象徴」なのだと私は今でも思う。
 

●経済合理性からみた「公園」

 
もう一つは「公園」の存在である。
前提として、公園がわたしはめちゃくちゃ好きだ。若い頃から公園で遊び、公園で青春の時間を過ごした。今でも公園にほぼ毎週いく。
 
そして、公園、というのは、どの都市にもある。正確には、先進国にはある、ということかもしれないが、ビルに囲まれた都市部には必ず公園がある。
 
しかし、変な話だ。なぜなら、経済合理性だけを考えると、公園を潰して、建物を立てたほうが、儲かりそうな場所でも、必ずといっていいほど公園はある。
 
なぜか?
 
公園はお金にはしづらい。一方で、その地域に住む人や、働く人にとって憩いの場になり、遊びの場になる。その意味で、資本主義には乗りづらいが、人々を幸福にしている、とわたしは思う。
 
なにがいいたいか?
 
言い換えると、
「猫」がもしも、生物としての「ぎりぎりの自由」の象徴なら、公園は物質としての「ぎりぎりの自由」の象徴なのかもしれないと私は思う。
 

●組織にも「猫と公園」は必要か?

 
この「猫と公園」問題は、
 
組織も同様なのかもしれない
 
と時々、思う。
 
というのも、ほとんどの真理は「マトリョーシカのようにできている。あるスペクトルで見ると、成り立つ原則は、もう少し小さく見ても成り立つものだ。
 
つまりもし「猫と公園」の話が、地球単位で見られるのだとしたら、これは小さな共同体でもなりたつはずだからだ。
 
「猫と公園」とは、言い換えると資本主義と(人が本能的に求める)自由の共存の形のベスト解なのだろう。
 
だとしたら、これは企業組織でも同じのはずだ。なぜなら、構成している人間の性質は同じだからだ。
 
企業にとっても「猫と公園」はある程度あったほうが、生態系としては強いかもしれない、ということだ。
 

●クリエイターの役割は「公園」を併設すること

 
わたしは普段、作家、と名乗ることも多い。
本当は「何が作家なのか?」と問われると難しい。その意味で「自分が作家と名乗っていいのか?」と悩んでいる側面がある。
 
というのも、ビジネスの世界にも完璧に生きているからだ。
 
だからといって「クリエイター」と名乗るのは、なんだか仰々しいと思うし、自分にはまだピンとこない。だが、確実に、常に「何か」を生み出している自覚があるし、それに、作家業だけでもある程度、食べられるぐらいは、成果を出しているつもりなので、作家、といっても違和感はない気もする。
 
話が脱線したので、話を戻し、では、この作家やクリエイターというのは、どういうことなのか?と考えることがある。
 
言い換えると、資本主義から見たら、作家・クリエイターどういう役割を持っているのか。
 
それは「公園」を作り出し、併設することだと、わたしは思う。「公園」当然、これはアナロジーだ。
 
ここでいう公園とは「資本主義社会にギリギリ乗りすぎていないけれど、人々のこころを確実に豊かにするもの」を指す。コモンズ、という概念に近いものだ。
 
わかりやすいものなら、絵画、小説や、漫画、音楽などもそうだろう。資本主義に乗りすぎていないけど、でもお金は結局必要、ということだ。
 
そして、こういったものは、いうならば「資本主義社会と併設」されている必要がある。
 
でなければ、現実的には、クリエイターや作家は、食べていくことができないからだ。趣味の域を超えないからだ。
 
わたしは性質的に、経営者とクリエイターの方とダブルで仲が良くなりやすい。
 
そして思うのは、成功していてカッコいい経営者ほど、この「猫と公園」の感覚を持っているように思うし、成功していてすごいクリエイターほど、この「資本主義に併設する」感覚を持っているように思う。
 
これは実は昔からそうだ。たとえば、お坊さんが修行する寺は、常に「街から遠すぎず、しかし、近すぎない場所」に立てられた、という。まさに究極的なゴール、悟りや無欲を目指す修行僧すら、この「併設する感覚」を持っていたわけだ。
 
公園が、山ばかりのど田舎にないのは、当然、そこに既に自然が溢れているからだ。だとしたら、クリエイターや作家にやはり必要なのはこの「併設する感覚」かもしれない。
 
そんなことを考えていた、日曜の昼だった。
 
「猫と公園」の話、
皆さんはどう思うでしょうか。
ぜひ感想を聞ければ幸いです
 

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