多くの凡人が「天才」ではなく「完璧な後輩」を求める理由
「人は才能を求めながらも天才を殺してしまう」
悲しい文書を読んだ。
内容は「有名税」の話だ。
冒頭はこう始まる。
有名な人間にはどれだけ悪意をぶつけても良いと思っている人が大勢いる。しかも彼等は咎められると「軽い気持ちで感想を言っただけなのに反応されて傷つきました。あんな人をテレビに出さないで下さい」と匿名でクレーム出来る切り札を持っている。更にその言い分で分が悪くなれば、黙ってアカウントを消して逃げられる。いつだって顔のない人たちは自由だ。
僕は、彼女が天才であるかを、知らない。何者であるかもよくは知らなかった。どうやら原稿を読むと、彼女は小学生のときからTwitterで情報を発信してきたようだ。
目立つ発言をするごとに、僕はトロールの玩具にされていた。発言を切り取って揚げ足を取られ、拡散され、本業の仕事をつぶされ、攻撃的な人から身を守るコストだけが年々膨らんでゆく。
この一文を読んで、僕は猛烈に申し訳ない気持ちになった。
なぜなら、我々大人が「若者の希望を奪う側に回っている」気がしたからだ。
大人というのは身勝手なもので、口では
「多様性が大事」
「才能が重要」
と言いながらも、いざ自分の目の前に少しでも気にくわない「才能」がいると、彼らを叩くことがある。しかも、いつでも彼らは「弱者の仮面」をかぶれる。
「叩かれるのは、才能を持つことの代償である」と切り捨てるのだ。しかし、これは本当だろうか…?
多くの凡人が求めるのは「天才」ではなく「完璧な後輩」である
実際、これは半分は正しい。クリエイターであることの条件は「お金を払ってくれる人に対しては、対等である」ということだ。僕の場合、書籍や講演にお金を払ってくれる人の批評は自由だ。
だが、同時にそれはあくまで「作品の内容に関してだけ」であるべきだ。
反対にいえば、彼らの「作品の作り方」「生き方」「その人のプライベート」、それらは常に批評の対象外であるべきだ。
では、なぜ、こんな差が生まれるのか?
それはこういう「偽善の大人」が求めているのは「天才」ではないからだ。彼らが求めるのは「完璧な後輩」なのだ。彼らが求めるのは
「年上への忖度ができて、適度に自分の助言にも感謝してくれる、抜群で完璧な才能がある後輩」なのだ。
クリエイターは「作品」で評価されることを求める。だか、偽善の大人が愛しているものは「作品」ではない。「完璧な後輩」なのだ。
だから、こんな差が生まれてしまう。
だが「完璧な後輩」から素晴らしい作品など生まれるわけがない。むしろ不完全な存在が生み出す作品ほど、素晴らしいものになりえる。だから両者は普通両立しえないのだ。
もちろん、世の中には「本物の大人」がいる。僕が「共感の神」と呼ぶ人たちがわかりやすい。 (『天才を殺す凡人』)
彼らは「才能がある人」のことをよく理解している。「鉄の仮面の奥にある繊細さ」を見逃さない。人の心を動かすためには、それ以上に「人の機敏な気持ちも読み取れる」必要がある。それゆえ、壊れやすい面もあることを知っている。
「天才は、二度殺される」
私は天才は二度殺される、と思っている。
一度は「精度の低い目利き」によって。凡人からのベクトルだ。もう一つは「誤ったサイエンス」によって。これは秀才からのベクトルだ。
たしかに
「殺されるような天才は天才ではない」
これはある面では正しいだろう。
だが、多くの画家がそうであるように「殺された後でしか認められない天才は山ほどいる」のも事実だ。だから我々は自らに問う必要があるのだ。
・僕たちは「殺された後に認められた天才」を見たいのだろうか?
・天才を殺したあとに彼らを拝めたいのだろうか? と。
きっとそうではないはずだ。
これから、日本は人口減少社会に突入する。その中で「才能を理解し、愛する力」は必ず武器になる。
本来、善良な人は、誰かの才能に興奮して、楽しんだことが一度ぐらいあるはずだ。それに何より「自分の才能」がうまく活用せずに「悔しい」と思ったことがあるはずだ。
人生で一度でも「悔しい」と思ったことがある人なら、本当は理解できるはずなのだ。
(来週に続く)
▼1月18日(金)『天才を殺す凡人』発売(北野唯我、日本経済新聞出版社)