『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

多数決は天才を殺すナイフだ。「共感」は恐ろしい

昔から「多数決」の意味が分からなかった。

なぜなら「たくさんの人がいいと言ってても、間違っていることは山ほどあるのに」と思っていたからだ。

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あれは高校の卒業式だった。僕は、高校の卒業式に出ていない。

理由は

「髪の毛が長くて、ツイストパーマで茶髪だったから」

だ。当時は校則が厳しく、僕の髪の毛はたくさんの点でアウトだった。だからリハーサル前日、担当の数学の先生に呼び出され、こう言われた。

「髪切ってこい。さもないと出さないぞ」

はえ!と言いつつ、こう思った。

「なぜ卒業式に、でないといけないのだろう?」

と。僕は不良だったわけではない。むしろ学祭では前に立つ立場だったし、社会起業家としても活動していた。つまり、意識はとても高かった。不良ではなかった。

だがこう思った。

「なぜ、他の人がやってるから、やらないといけないのだろう?」

と。数学の先生は良い先生だった。とても感謝していた。だから、こう言った。

「だったら出なくて大丈夫です、先生。これまでありがとうございました」

僕は深く頭を下げた。

先生は目を丸くしていた。驚いていた。

そして卒業式は欠席した。

 

ーーー

「多数決は嘘をつく」

これは振り返ると大学受験もそうだった。僕はいろんな理由があり高校を3分の1ぐらい休んでいた。学校に行ってなかったのだ。

朝、学校に行くふりをして家を出て、コンビニでジャンプを買い、公園で時間を潰したあと、父親のふりをして学校に電話を入れていた。シンプルに「学校にいく意味」がなかったからだ。


学ぶ意味がよく分からなかった。なんのために生きるのか、なんのために学ぶのか、が理解できなかったのだ。

でも学校にいくと
「勉強すること」は当たり前のようだった。

当時の僕からみると、周りの同級生たちは思考停止の人間にみえた。「なんのために学ぶのか」を考えずに、「周りの人が勉強するから勉強している」ように見えていた。。だから、学校に行かず、Perlという言語を学び、ひたすらゲームを作ったりしていた。あるいは、ギター片手に曲を作ったりしていた。

 

その方がよっぽど「価値がある」ように見えたからだ。

 

やがて時はたち、31歳になった。今になり二つのことを思う。

一つは「自分が明らかに間違っていたこと」
もう一つは「自分があっていたこと」だ。……?

・間違っていたこと→「世の中で支持されていること」はそれだけでパワーがある

まず一つは、明らかに自分が間違っていたことだ。具体的には多数決には「価値があるときも」ある。
世の中に広く慕われているものには、それはそれで価値がある。だから、僕は部分的に間違っていた。

サピエンス全史が指摘したように、人々が信じているものは往往にして「幻想」だ。だが、その「幻想を信じていること」自体が価値があることがある。数学の先生が言うことは正しかったのだ。

 

しかし、もう一つは16歳の僕が正しかったことだ。具体的には、共感性は「マイノリティ」にとっては意味がない、と言うことだ。

・多数決は天才を殺すナイフだ。「共感」は恐ろしい

普通の人は「共感できるかどうか」によって物事を決める。新著『天才を殺す凡人』で指摘したように、それは多くの人にとっては正しい。

だが、共感はマイノリティにとってはノイズでしかない。共感とは「共通の国籍や、バックグラウンド、思想を持ち合わせた人たち」のためのものだ。その間に入れないマイノリティには価値がないのだ。1つの要素でしかない。

これは仕事でもそうだ。

これまで10年弱、企業のストラテジーに携わる仕事をずっとしてきた。そこで思うことは「共感による意思決定は誤る」ということだ。経営において大事な意思決定は「絶対に共感性だけで決めてはいけない」とすら思う。

 

それは、易きや現状維持にながれるからだ。

 

そもそも「共感できること」とは、過去に起き、すでに皆が感じてきたことの延長線上だ。

その意味で「共感による意思決定の先にあるのは、ただの現状維持」なのだ。それは新しきを作るモノにとっては邪魔になりえる。

天才を殺す凡人という本を書いた。もうすぐ発売される。その事前モニタリングで、素晴らしい感想があった。

(感想より) 20代・女性・IT

私は凡人の側面が圧倒的に多いのですが、「多数決こそ、天才を殺すナイフとなる」と文中にあった時に、小・中・高校と、何かを決めるときに、(机に伏せて挙手をするので匿名性はあるものの)「多数決で決めよ〜」という流れが常習化しすぎていて、「大多数の意見こそ、善」ということがどこかしらで刷り込まれているのも、天才を殺しているのかなと思いました。

社会に出てから、尖っていたり、何かに特化していたり、個性がないと、結局個として、輝けないなとも思えて、「良い人になろう」と思っていた私にとっては、結構衝撃だった。

 

我々は誰もが才能を持っている。それを確かめるための本。ぜひ、皆で読んでディスカッションしてくれる人を求めています。

(続く)

 

 

▼1月18日(金)『天才を殺す凡人』発売(北野唯我、日本経済新聞出版社)

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天才を殺す凡人表紙

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多くの凡人が「天才」ではなく「完璧な後輩」を求める理由

「人は才能を求めながらも天才を殺してしまう」

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悲しい文書を読んだ。

有名税|春名風花|note 

内容は「有名税」の話だ。
冒頭はこう始まる。

有名な人間にはどれだけ悪意をぶつけても良いと思っている人が大勢いる。しかも彼等は咎められると「軽い気持ちで感想を言っただけなのに反応されて傷つきました。あんな人をテレビに出さないで下さい」と匿名でクレーム出来る切り札を持っている。更にその言い分で分が悪くなれば、黙ってアカウントを消して逃げられる。いつだって顔のない人たちは自由だ。

僕は、彼女が天才であるかを、知らない。何者であるかもよくは知らなかった。どうやら原稿を読むと、彼女は小学生のときからTwitterで情報を発信してきたようだ。

目立つ発言をするごとに、僕はトロールの玩具にされていた。発言を切り取って揚げ足を取られ、拡散され、本業の仕事をつぶされ、攻撃的な人から身を守るコストだけが年々膨らんでゆく。

この一文を読んで、僕は猛烈に申し訳ない気持ちになった。

なぜなら、我々大人が「若者の希望を奪う側に回っている」気がしたからだ。

 

大人というのは身勝手なもので、口では

「多様性が大事」
「才能が重要」

と言いながらも、いざ自分の目の前に少しでも気にくわない「才能」がいると、彼らを叩くことがある。しかも、いつでも彼らは「弱者の仮面」をかぶれる

 

「叩かれるのは、才能を持つことの代償である」と切り捨てるのだ。しかし、これは本当だろうか…?

 

多くの凡人が求めるのは「天才」ではなく「完璧な後輩」である

実際、これは半分は正しい。クリエイターであることの条件は「お金を払ってくれる人に対しては、対等である」ということだ。僕の場合、書籍や講演にお金を払ってくれる人の批評は自由だ。

だが、同時にそれはあくまで「作品の内容に関してだけ」であるべきだ。

 

反対にいえば、彼らの「作品の作り方」「生き方」「その人のプライベート」、それらは常に批評の対象外であるべきだ。

では、なぜ、こんな差が生まれるのか?

それはこういう「偽善の大人」が求めているのは「天才」ではないからだ。彼らが求めるのは「完璧な後輩」なのだ。彼らが求めるのは

 

「年上への忖度ができて、適度に自分の助言にも感謝してくれる、抜群で完璧な才能がある後輩」なのだ。

 

クリエイターは「作品」で評価されることを求める。だか、偽善の大人が愛しているものは「作品」ではない。「完璧な後輩」なのだ。
だから、こんな差が生まれてしまう。

だが「完璧な後輩」から素晴らしい作品など生まれるわけがない。むしろ不完全な存在が生み出す作品ほど、素晴らしいものになりえる。だから両者は普通両立しえないのだ。

 

もちろん、世の中には「本物の大人」がいる。僕が「共感の神」と呼ぶ人たちがわかりやすい。 (『天才を殺す凡人』)

彼らは「才能がある人」のことをよく理解している。「鉄の仮面の奥にある繊細さ」を見逃さない。人の心を動かすためには、それ以上に「人の機敏な気持ちも読み取れる」必要がある。それゆえ、壊れやすい面もあることを知っている。

 

「天才は、二度殺される」

私は天才は二度殺される、と思っている。

一度は「精度の低い目利き」によって。凡人からのベクトルだ。もう一つは「誤ったサイエンス」によって。これは秀才からのベクトルだ。

たしかに
「殺されるような天才は天才ではない」
これはある面では正しいだろう。

だが、多くの画家がそうであるように「殺された後でしか認められない天才は山ほどいる」のも事実だ。だから我々は自らに問う必要があるのだ。

・僕たちは「殺された後に認められた天才」を見たいのだろうか?

・天才を殺したあとに彼らを拝めたいのだろうか? と。

きっとそうではないはずだ。

 

これから、日本は人口減少社会に突入する。その中で「才能を理解し、愛する力」は必ず武器になる。

本来、善良な人は、誰かの才能に興奮して、楽しんだことが一度ぐらいあるはずだ。それに何より「自分の才能」がうまく活用せずに「悔しい」と思ったことがあるはずだ。

人生で一度でも「悔しい」と思ったことがある人なら、本当は理解できるはずなのだ。

 

(来週に続く) 

 

▼1月18日(金)『天才を殺す凡人』発売(北野唯我、日本経済新聞出版社)

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天才を殺す凡人表紙

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問題を「センター」から解くか? 「サブ」から解くか?

 

「なぜ、転職の思考法は売れてるんですか?」

 

先日、WeeklyOCHIAIという番組に出させてもらった。その中で、NewsPicksの佐々木紀彦CCOからこんな質問をもらった。

 

そのとき、僕は「消費者から見た理由」を答えたのだけど、いまいち、しっくりこなかった。ずっとモヤモヤしていた。なので、もう一度考えてみた。そうすると、理由がわかった。

 

あの本が売れた理由は

 

・経済のセンターピンである「雇用」という問題に、ど正面から立ち向かったから

 

だと思うのだ。

 

問題を「センターの問題」から解くか? 「サブの問題」から解くか?

人が物事を解くとき、大きく二つの方向性がある。

 

1つは「センターの問題」をとくこと。つまり、一番でかくて本質的な問いに立ち向かうことだ。いきなり「本質をつく」方法だ。

もう一つは「サブの問題」をとく方法。つまり、「メインではないけれど、解きやすい問い」から解いていくことだ。この違いは、テストをイメージするとわかりやすい。一番、難しくて点数の大きい問題から解くか、解ける問題から解くか、ということだ。


そして、転職の思考法はこの両方、つまり「経済のセンターピン」である雇用というテーマを、「転職という具体的な方法」から解こうとしたのかもしれない。

 

そもそも、物事や課題には「センターピン」が存在している。センターピンとは何かというと、世の中の関心が「最も集まるテーマ」だ。世の中には、必ず、システムと日常生活の関心がクロスするポイントがある。図に書くと、こんな感じだ。

 

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そして、「経済のセンターピン」はなにかというと

・「雇用」

だと思うのだ。

 

振り返ってみると、経済のセンターピンは常に、雇用だ。日常に溢れているニュースや、大企業の給与や大量解雇の問題、トランプ大統領の選挙など、ほぼ全ての経済は「雇用」を軸に語ることができる

 

これはなぜかというと「雇用」というのは、参加できる人の人数が極めて多いテーマだからだ。サプライヤーと、ユーザー。雇用を提供する「投資・経営者サイド」と、雇用を享受する「労働者サイド」の双方がクロスする。

 

だからこそ、「雇用」は経済のセンターピンになりえる。雇用は、一部の経営者や、天才だけに関係があるテーマではない。全ての人の「日常生活」に密接している。


世の中に「たくさんの雇用」を生み出している起業家や経営者は尊敬されるし、「たくさんの雇用を消した」経営者はバッシングを受ける。トランプが大統領になれたのも「雇用の不安」を煽ったからだ。反対に言えば「テクノロジー」や「アート」単体では経済のセンターピンになりえないのだ。

 

 そして今、僕はこの「雇用」に猛烈に興味を持っているということになる。

 

物事の構造を捉えるときに「その問題のセンターピンはどこにあるのか?」を考える

最近、物事の構造を捉えるときまず「その問題のセンターピンはどこにあるのか?」ばかり考える。

 

そしてこの「センターピン」をセットしたら、あとは、そのセンターピンを取り巻く環境を「個人」と「システム」で観測し、その問題を解決する手法を見出す。こうやって問題をとく。

 

これは「理論モデル(アブダクション)」と呼ばれる問題解決手法だ。

 

そもそも、人が物事を構造的にとくとき、大きくいうと、2つの流派がある。(と僕は思っている)

 

一つは「因数分解である。これはコンサルタントが得意とする手法であり、よく使われている。ものごとを、X=A×(B+C)というように分けていく手法だ。MECEという単語も有名だろう。

 

だが、この因数分解モデルというのは限界がある。それは「見えている現象の範囲」でしか、問題を捉えることができないことにある。


これは当たり前の話で、「因数分解する」ということは、「ロジックツリーの一番トップの問題」が最もマクロなテーマになる。そして「根拠を求められる」限り、ロジックツリーの上位点は、既存の見える範囲しか、対象になりえない。
(もともと、コンサルだったこともあり、因数分解することは、ハッキリ言って楽である。)

 

そして、もう一つが「理論モデル」を作って、解く方法である。
これは先に公理を立て、その公理に基づいて「問題を予測し、解く」方法だ。
(ちなみにこれは演繹法帰納法というものとはまた違うものらしい)

 

この「理論モデル」の良さは「まだ見えていない物を解くことができる」という点だ。
加えて、一度構築した理論をもとに、次の理論を立てていくことで、次から次へと問題を解くことができる。加えて、強い理論は適応できる範囲が広い。


究極的にいうと、「適応できないテーマがない」のだと思う。

 

もちろん、デメリットもある。それは「完全に事実を100%証明しきること」ができないことだ。そもそも、理論というのは「最小で最大を説明すること」であるので、事象の漏れがどうしてもでる。これが弱点だと思う。

 

・人間社会のセンターピンは「雇用」「社会保障」「イデオロギー」説

 

何がいいたいのか。それは現在社会のセンターピンが、最近、3つなのではないか、と思うのだ。

 

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雇用は、社会保障と密接に連携しあう。社会保障は、雇用に影響を与える。
一方で、これは基本的には「国家」というものを最上位の概念においている。
だが、人は「国家」を最上位に置かないケースがある。
それが、宗教であり、思想であり、まとめると「イデオロギー」である。

 

だから、これらの3つが相互に影響しあい、社会が動いていくのではないか?と思うのだ。

 

ちなみに、これを経営のアナロジーに例えると、
こうなるわけだ。

・事業と成果
・人事労務制度
イデオロギーの対立

経営というのは、いきつくところ、
この3つのセンターピンを解く。
こういう行為なのではないか、と最近思う。(続く)