『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

多くの経営者が魅力的である理由。ー ゴリラに学ぶ「戦わずして勝つ」思考法

 

 

孫氏いわく「戦わずして勝つ」が最強だが、

 

これは生物界でも同じだ。

 

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例えばゴリラはドラミングをして、互いの種を攻撃しあうことを避ける。なぜなら、攻撃しあうことは、結果「種としての生存確率を下げること」が明白だからだ。同様に、真に賢い人間こそ、無駄な敵は作らない。優秀な経営者がその典型例だ。

 

だとしたら本質的に考えるべきは、これである。

 

 戦わずして勝つが最強だが、問題は「どうその状況を作るのか?」である

 

 

99.9%は、戦略では大差をつけられない。ベゾスでない限りね

 

先日、リディラバの安部さんと話した。リディラバは「社会の無関心を打破する」を軸に、スタディツアーや、メディアを運営している法人だ。代表の安部さんは、同年代の中では抜群に頭のキレる人物だった。彼と盛り上がった話がある。要約するとそれは

 

 短期的なROIが低い施策の方が、実は、差別化要因になりえる

 

ということだった。

 

分かりにくいと思うので、補足すると、以下の議論を見て欲しい。これは、楽天の創業メンバーで、現在教育現場にいる本城氏への取材だ。

 

北野:僕が実務家として思うのは、ビジネスに成功している人ってどこかのタイミングで、教育に興味をもつ人が多いですよね。その理由って、多分、「教育」って、短期的なROI(※)がもっとも低くて、それでいて長期的には、もっともROIが高いからだと思うんですよ。合理的で、成功した人は、短期的なリターンを求める必要がないから、教育に興味がいく。こういう構造な気がします。本城さんはなぜだと思いますか?

 

(※)ROI…「Return On Investment」投資利益率。投資額と,それが生む利益との比率。投資効率の指標の一。

 

本城:教育って、ある意味、みんなプロなんですよね。みんな、かなりの時間教育の受け手になっている。言いたいことも山ほどある。よく1万時間やると何でもプロになるというと思うんですけど、みんな小中の授業時間だけで1万時間超えますし、だからやりたがるし、言いたがる人が多い。

 

あとは経営者の方たちというのは、人のことで苦労することが多いですよね。後継者とか組織とか……。そうすると突き詰めると社員教育というよりは、その手前にある学校教育にも意識がいくのではないでしょうか。時間がかかるし、難しいし、手間がかかるというのは魅力的にうつると思います。

https://www.onecareer.jp/articles/1209

 

そう!これなのだ。つまり、教育は短期的にはROIが最も低く、長期的に見ると最も高い行為の1つ。だから、成功した人ほどここにたどり着きやすい。

 

加えて、リディラバの安部氏は、面白い考察をしていた。いわく、

 

投資ファンドや上場企業は、5年程度での「回収」を求められる。だから、よくよく話を聞いてみると、意外と何も考えていない(←)。ということは、小さな会社やベンチャーは「5年では回収できないが、長期で見ると、大きく回収できる領域」で戦うのがベストであると。これは面白い考察だ。

 

あるいは別の話もある。

 

先日、ビズリーチの役員・関氏と話した際も、同様の話題で盛り上がった。彼は、エンジニア→マッキンゼー→起業→ビズリーチ役員という、眩しくて目を向けられないぐらい優秀な方だった。

 

(参考)

newspicks.com

 

その際も、盛り上がったのは「最も重要なのは、エグゼキューション(実行)である」ということだった。僕も一応、新卒から経営戦略に携わる仕事をかれこれ、7年近く担当してきたが、実感として感じる。なぜなら

 

 99.9%のケースでは、戦略では大差がつけられない。
 だって、簡単にパクれるからだ。

 

一定レベル以上の賢い人にとって、戦略は「模倣可能なゲーム」

 

厳密にいうと、戦略というのは極めて重要だが、一定レベル以上の賢い人にとって、それは「模倣可能なゲーム」なのである。後はそのゲームを、何Hのめり込むことができるか、で結果に差がつく。そういう構造だ。

 

となると面白い。なぜなら「本当に賢い人間同士」がぶつかったときは、差別化する要因がなくなってしまうからだ。これはある種、ゲーム理論の「均衡」に近い。

 

これで、ようやく、本質的な問いに答える準備ができた。つまり、問題はどうやって「戦わずに勝つ状態を、事前に作るか」である。

 

 ▼ここまでの要約

 あるレベルの賢い人→戦略はパクれる。だから、実行で差がつく

 真に賢い人→戦略はパクリ、その上で実行もできる。だから差がつきにくい

 もっともっと賢い人→戦わずにして勝つ状態を、事前に作る

 

 

覚悟が決まっている人間が、最も手強い

 

どうやって戦わずにして勝つか?

 

結論をいうとそれは「圧倒的な覚悟を決めること」「見せつけること」だと今は思う。ビジネスパーソンとして、どんな敵が一番強いのか、と言われると、それは間違いなく覚悟を決めた人間である。

 

何度失敗しても、立ち上がり、何度でも、未来に向かう人間。「覚悟した人間」は倒すことができない。そもそも、失敗という概念がないからだ。(これは最近だと、藤田さんが、アベマTVに200億円ぶっこんでいる話が、一番分かりやすいと思われる)

 

そして僕らは、圧倒的な覚悟を見せつけられたとき、悟る。「こいつには絶対勝てない」と。なぜなら、多くの人にとって、覚悟というのは絶望の淵にたどり着いて初めて得られるものだからだ。僕らのように、挑戦する“前の人間”には「覚悟」は持とうと思っても持てない構造なのだ。

 

圧倒的な覚悟をもつこと、これこそが、最強の一手なのである。

 

究極の覚悟とは死である。不思議だが、覚悟すると、人が寄ってくる

 

覚悟を持つことは、実は、副次的なメリットもある。その1つは「人が寄ってくること」だと思う。最強の覚悟とは、当然「死」であるが、面白いのは、人生のタイミングで、死と直面し、覚悟した人間には「人が集まってくる」のだ。

 

逆説的では、ないだろうか?

 

死というと、暗いイメージが伴う。だがむしろ結果は逆なのだ。覚悟を持った人間には過去は見えていない。未来しか見えない。そして、「過去」には他者が入るこむ余地はないが、「未来」には他者が入り込む余地がある。そして人間は、自分が入り込む余地がある場所に、入る。

 

しかも、どうでもいい人ではない、「凄いやつ」ほど寄ってくるのだ。面白い。

 

これは実体験がある。

 

「覚悟を持って挑む人間」に、周りは優しい

(ただし凄いやつからね)

 

小さい頃から、僕は英語がコンプレックスであった。どれぐらい英語が話せなかったかというと、25歳ぐらいのとき、TOEICは多分、300点ぐらいだった。だが、それを半年で、ほぼ満点にあげた。ついでに、同様の方法で、中国語も3ヶ月でHSK5級という、二級相当に当たる資格を取得した。

 

この話をすると、「なぜ、そんな短期間で語学を習得できたのか」と問われるが、方法論もあるが、もう1つは、覚悟を見せたことである。というか、覚悟を持たざるを得なかったからだ。(詳細は省くが、お金もないし、保険もない、英語もできない状態で、生きるのに必死だったからである)

 

そして「覚悟を持って挑む人間」に周りは優しい。応援してくれるのだ。いろんな人が、「これもやってみたら?」「この人に会ってみたら?」と紹介してくれたのだ。その応援があったからこそ、半年でそれなりには話せるようになった。これが「覚悟を持った人間に人は集まる」という実体験だ。

 

何が言いたいか。

 

つまり、覚悟とは

 

 強力なライバルを事前に避け、優秀な仲間を集める、最強の1手

 

なのである。(しかもゼロ円だ!)

 

多くの経営者が魅力的なのは、この理由である。

(ゴリラから学んでいないね、ごめんなさい)

 

本が出ます、多分

 

最後に、ご縁あり、初めての単著がでます。しかも大好きな出版社さんから。頑張ります。

 

年をとるほど「躊躇なく10点」をつける力が最強である理由

 

「年をとる」と「大人になる」は、一緒であるか?

 

と聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか。両者は似ている。だが、少しだけ違う。まず、“大人になる”とは「価値のベクトルが180度変わること」だ。具体的には“価値をもらう側”から、“与える側になること”だ。

 

例えば、10代でも働いていて「価値を与える側」にいれば、大人でありえるし、40代でも「何かを与えてもらうことしか考えていなければ」子どもであり続ける。教えてもらう側から、教える側に変わること。与えてもらう側から、与える側に変わること、これが大人になることだ。

 

では「年をとること」はどうだと思うか。

 

今になり気づいたが、年をとるとは結局のところ「自分の過去の知識でしか、物事を見れなくなること」だ。これ自体は必ずしも悪いことではない。だが、問題は、物事を相対的にみることは人生の満足度を下がることにつながることだ。

 

つまり、

 

 人生の満足度を下げるのは、他者ではなく「自分の過去の知識と比較する行為である」

 

ということだ。

 

どういうことだろうか?

 

賢い人間にこそ必要なのは「8点」ではなく、「躊躇なく10点をつけること」

 

面白いデータがある。この半年で予想もしないまま、個人の名前でトークイベント?をすることになった。(キッカケは巻き込まれ事故だった)。イベントでは毎回、10点満点でアンケートをとっている。以下が直近のイベントの結果だ。

 

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点数自体はコンテンツのレベルによるのでなんとも言えないが、面白いのはこの「10点」の内訳だ。そもそもこの「10点」というのは相当面白くないと、付けない点数だ。「めちゃくちゃ面白い」と思った人だけがつける。

 

そして、興味深いのは、10点をつけた人の「年齢の内訳」なのだ。

 

10点をつけた人のうち、40歳以上の人は、一人しかいない。さらに興味深く見ていくと、歳をとればとるほど「満足した場合でも8点しかつけない」ことが多い。興味深くないだろうか? これは1つの示唆を与えている。それは、

 

 歳をとるほど、「人は自分の過去の知識と比較しはじめる」ということだからだ。

 

言われてみれば、自分にも思い当たる節がある。例えば、恋愛映画を見たとしよう。あなたは感動し、涙を流した。ストレートに言って、素晴らしいと思った。10代ならそれを素直に「めちゃくちゃ良かった!」と言っていた。10点をつけてきた。だが歳をとった僕らはこういう。

 

 「面白いよ、でも、ああいう系なら、XXXの方がもっと面白いよ」

 

そう、この言葉なのだ。これが老いの始まりなのだ。恋愛なら、ビフォアサンライズの方が面白いよ。アクションなら「ダークナイト」、サスペンスなら「真実の行方」、世界中に名作は存在する。だが、それらは過去の話だ。今この瞬間の感動とは、独立した事象のはずだ。しかし、賢い人間は過去と比較して物事を見ようとする。だから8点をつける。

 

何がいいたいか? 

 

もしあなたが、似た思考法を持ち始めていたら忘れないでほしい。

 

賢い人間にこそ、必要なのは「8点」ではなく、「躊躇なく10点をつけること」

 

なのだ

 

10点を付けても、誰もあなたを「モノを知らない人」とは思わない

 

では、何が、人間を老いさせるのか。端的に言えば「恐怖」だ。自分が「何も知らない人であると他者に思われること」、その恐怖なのだ。知識だけを追う人間は、絶対的に勝ち続けることはできない。

 

なぜなら、世界には、ありとあらゆる知識が存在しているからだ。陳腐な例でいうと、東京で生まれ育った人は「十三」という地名を読めないし、地方で生まれ育った人は「渋谷駅」でうまく乗り換えができない。

 

そして幼い頃から「知識とは武器である」と教え込まれてきた人間は、自分が物を知らない人間であると思われることを、恐ろしく嫌う。僕もそうだと思う。そういう人は、まだもっといい物があるかもしれない、過去にもっといい物があった、という知識を引き出してきて「8点」をつけるのだ。

 

だが、安心してほしい。10点をつけても、あなたを誰も「物を知らない人」だとは思わない。むしろ、歳をとればとるほど「10点をつけること」の価値は高くなっていく。どういうことか?

 

最強の生存戦略は「躊躇なく、良いモノは良い」と言えること

 

この数年で、いわゆる“すごいオッさん”とたくさん話してきたが、共通点がある。彼らは若い頃から「老害になること」に対する、対策を打っているのだ。どれだけ偉大な人物でも、歳はとり、やがて死ぬ。そして、老いは思考を狭め、若い人に対するディスアドバンテージを生み出す。

 

そして、悲しいことに、平均値でみると、いつの時代も若い人には勝てない。世の中にとりまく、技術や思想は進化し、その中で彼らは育ってきている。自分たちよりも科学的で、進化した環境で若い頃から育ってきた。僕もあなたもそうだ、勝てるわけがないのだ。

 

だから、抜かれていくのは当たり前の話なのだ。というか、抜かれていないとしたら、その社会はまずい。環境が進化していないということだからだ。次のバトンを渡すことこそが、21歳のあなたの未来の宿命なのだ。

 

となると、先に年老いている僕らがやるべきことはなにか。それは、「躊躇なく、良いモノは良い」と言えることなのだ。若いあなたたちを支えることなのだ。この戦略は若者のためだけではない。自分のためになる。

 

なぜなら、「躊躇なく10点をつけること」は、普通の老人にはできないことだからだ。それをメタ認知し、躊躇なく、いい物はいいと言い続けること。これだけで、差別化になり、あなたの強い生存戦略になる。

 

何がいいたのか? それは

 

最強の生存戦略は「躊躇なく、良いモノは良い」と言えること

 

である、ということだ。

金曜の夜に「早く月曜こないかな」と呟いたら、女の子にブチ切れされた話

ああ。なぜ男とはここまで愚かなものなのだろうか。言ってはいけないことを言ってしまった。全てはこの一言から始まった。

 

「早く月曜来ないかな」

 

魔弾だった。他意はなかった。だが、一度放った言葉はめちゃくちゃに世界を巻き込み、彼女の鼓膜までたどり着いた。

 

「……え?」

 

「……ん?」

 

「なんて言った? 今」

 

「へ……っ?」

 

“金曜日の夜”というのは、サラリマーンにとって審判の一日だ。その一週間よく働いた者はビールを甘く飲む権利を持ち、その1週間ヘマをした人間は3日後にくる月曜の朝が憂鬱になる。だが、俺はそれをはるかに超えてナチュラルにこう思った。

 

「早く、月曜来ないかなー♪♪」

 

そう、ここまでは良かった。だが問題はそこじゃない。それをあろうことか、金曜の夜にシャンパンを持ち、俺と会うことを2週間前から楽しみにしていた女の子の前で呟いてしまったことだ。

 

そして今、彼女はシャンパンを静かにテーブルの上に置いた。そして真っ直ぐ俺の方を見てこう言った。

 

「それってさ、どういう意味?」

 

「……あ、いや、えーっと」

 

「はい。」

 

「……違う。違うんだ」

 

一体全体、何が“違う”のだろうか? この世界に普遍的なルールがあるとしたら、それは男がいう「違う」という言葉は一切“違わない”ということだけだろう。これぐらい俺も大人なのでよく知っている。こうなるともはや何を言っても意味はない。一度放った言葉は決して戻ってこない。俺は確信した。

 

「これは、ただひたすらに、謝るしかない」

 

同時に俺は、そもそも、女が抱える矛盾も痛感していた。俺のこの病気を名付けるとしたら“空気読めない病”だろうが、彼女の症状は「仕事好きな人が好きだけど、私だけが特別でもいて欲しい病」だ。もはや1つの定理なのではないかというほど、世界に遍在している理論だ。

 

 

・論点:「仕事って、楽しくあるべきなのか?」

さて、この問題は極めて強烈な問いを我々人類に問いかけている。それは

 

—   仕事って、そもそも、楽しくあるべきなのか?

 

ということだ。だが、この問題を解くためには、まず「性癖とは何か」について説明しなければならない。俺に100の性癖があるとして、その中で一番問題を起こし得る性癖があるとしたら、おそらくこれだろう。

 

 バリキャリ女子が、好きすぎる。

 

そう、俺は仕事が好きな女子や、バリバリ働く女子が好きすぎるのだ。例えば、友達にもし「マッ◯ンゼーの女の子と飲むんだけど、くる?」と言われたら俺はすべての仕事を投げ捨て1秒でイエスと返信するだろう。あるいは、ゴールドマンサッ◯スならどうか? もはやノールックで付き合ってくれないかなという気分になる。もっというと「30歳で会社を経営しています」なんて女性と会おうもんなら結婚すら頭によぎる。

 

少なくとも俺は俺以上に “バリキャリ女子が好きな29歳のオス”を東京の渋谷区では見たことがない。少なくともそう勘違いするほど、バリキャリ女子が好きなのだ。したがって俺はしばしば友達にこの話をするが、いつもこう言われる。

 

「全く理解できない」

 

「理由は?」

 

俺はこの質問をしてくる時点で、ばかたれと怒りたくなるが、その気持ちをぐっとこらえて、その理由を真面目に答えるとしたらこうだ。

 

“確かに積み上げてきたものと、それに相反する2つの気持ちが両立している姿に、美しさを感じるから”

 

 

……

……

……

意味不明だって? うん、きっとこう思っただろう、「よくわからん」と。

 

間違いない。俺も俺自身が今何を言っているかよく分からなかった。だが、ちゃんと説明したい。世界には実は2つのルールが存在しているということを。

 

・世界には「相関のルール」と「逆相関のルール」が共存している。

 

世界には、様々なルールが存在しているが、その根元には、さらなる2つの「大ルール」が存在している。

 

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 参考:世界には2つの大ルールが存在している

 

俺がバリキャリ女子が好きな理由は、普通なら「相反してしまう2つ」が共存していることが、男の世界ではなかなか起こり得ないからだ。例えば、男というのは単純なルールで、1つの数値が高ければ、他の項目にも正の相関を与える傾向にある。例えば、背が高いほどモテる。金を持っているほど、モテる。賢いほど、モテるだ。だが、女性は必ずしもそうではない。

 

だからこそ、「男性ですべてを持つ人」よりも、女性でそれを持つ人に、とてつもない魅力を俺は感じるわけだ。俺は俺ごときがどれだけ頑張っても決して乗り越えることの出来ないであろう、圧倒的な美しさをそこに見いだす。

 

言い換えれば、俺のような男はいつまでたっても、2週間前から俺と会うことを楽しみにしてきた女の子の前で「早く月曜来ないかな」というような無神経な発言ができてしまうわけだ。なぜなら、俺の中に相反するルールが存在していないからだ。

 

……さてここまで聞いて、あなたはこう思っただろう。

 

「この人変わってんな」

 

だが、ちょっと待って欲しい。俺は真剣に思うのだが、俺は変わっていない。むしろおかしいのは世界の方だとマジで思っている。むしろ、一体あと何年経ったら、世界は俺に追いつくのだろうか?とすら思う。

 

……

 

これはちょっとだけ、言いすぎた。

 

・金曜の夜に、いうべきこと

 

とにかく、そろそろ終わりにしたい。

 

一体、こいつは、何が言いたいのかって? それはというと

 

 世界には相反するものが、もっとあってもいいのじゃないか。

 

ということだ。かつて俺は「人類は、映画を1.4倍速で見てもいい」という定理を証明したが、その時に、世界にはサプライヤーロジックと、ユーザーロジックの2つがあることを説明した。

 

だが、このとき、俺はもっと根本的で大事なルールの説明を省いた。それが、まさにこの「大ルールの違い」だ。具体的には「小さなルール」の違いは、人は乗り越えることはできるが、「大ルール」の違いを人は完全には乗り越えることは出来ないという絶対的な限界線だ。

 

俺は確かにダメな人間だ。おそらくこんな下らない文章を最後まで読んでくださった男女の99%が「この人モテなさそうだなー」と思って、生物として俺を今見下していることだろう。これは間違いない。別にいい。俺は空気が読めないことだけが唯一強みのビジネスパーソンだ。だが、それでもこれだけは得意なことがある。それは

 

「違う大ルールで生きている人間の美しさを認めること」 だ。

 

かつて、物理学者のニールス・ボーアはこう語った。

 

『この世には、2種類の真実が存在している』

 

2種類の真実とは、「小さい真実」と「大きな真実」である。そして、小さい真実は簡単に見つけることができる。なぜなら、その反対が虚偽だからだ。だが、「大きな真実」は見つけるのが難しい。なぜなら、その反対には、もう一つの真実があるからだ。

 

さて、

 

今でも正解が分からない。だから教えて欲しい。

 

俺は、あの夜、なんと言えば良かったのだろう? と。

 

 

  
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