『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

年をとるほど「躊躇なく10点」をつける力が最強である理由

 

「年をとる」と「大人になる」は、一緒であるか?

 

と聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか。両者は似ている。だが、少しだけ違う。まず、“大人になる”とは「価値のベクトルが180度変わること」だ。具体的には“価値をもらう側”から、“与える側になること”だ。

 

例えば、10代でも働いていて「価値を与える側」にいれば、大人でありえるし、40代でも「何かを与えてもらうことしか考えていなければ」子どもであり続ける。教えてもらう側から、教える側に変わること。与えてもらう側から、与える側に変わること、これが大人になることだ。

 

では「年をとること」はどうだと思うか。

 

今になり気づいたが、年をとるとは結局のところ「自分の過去の知識でしか、物事を見れなくなること」だ。これ自体は必ずしも悪いことではない。だが、問題は、物事を相対的にみることは人生の満足度を下がることにつながることだ。

 

つまり、

 

 人生の満足度を下げるのは、他者ではなく「自分の過去の知識と比較する行為である」

 

ということだ。

 

どういうことだろうか?

 

賢い人間にこそ必要なのは「8点」ではなく、「躊躇なく10点をつけること」

 

面白いデータがある。この半年で予想もしないまま、個人の名前でトークイベント?をすることになった。(キッカケは巻き込まれ事故だった)。イベントでは毎回、10点満点でアンケートをとっている。以下が直近のイベントの結果だ。

 

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点数自体はコンテンツのレベルによるのでなんとも言えないが、面白いのはこの「10点」の内訳だ。そもそもこの「10点」というのは相当面白くないと、付けない点数だ。「めちゃくちゃ面白い」と思った人だけがつける。

 

そして、興味深いのは、10点をつけた人の「年齢の内訳」なのだ。

 

10点をつけた人のうち、40歳以上の人は、一人しかいない。さらに興味深く見ていくと、歳をとればとるほど「満足した場合でも8点しかつけない」ことが多い。興味深くないだろうか? これは1つの示唆を与えている。それは、

 

 歳をとるほど、「人は自分の過去の知識と比較しはじめる」ということだからだ。

 

言われてみれば、自分にも思い当たる節がある。例えば、恋愛映画を見たとしよう。あなたは感動し、涙を流した。ストレートに言って、素晴らしいと思った。10代ならそれを素直に「めちゃくちゃ良かった!」と言っていた。10点をつけてきた。だが歳をとった僕らはこういう。

 

 「面白いよ、でも、ああいう系なら、XXXの方がもっと面白いよ」

 

そう、この言葉なのだ。これが老いの始まりなのだ。恋愛なら、ビフォアサンライズの方が面白いよ。アクションなら「ダークナイト」、サスペンスなら「真実の行方」、世界中に名作は存在する。だが、それらは過去の話だ。今この瞬間の感動とは、独立した事象のはずだ。しかし、賢い人間は過去と比較して物事を見ようとする。だから8点をつける。

 

何がいいたいか? 

 

もしあなたが、似た思考法を持ち始めていたら忘れないでほしい。

 

賢い人間にこそ、必要なのは「8点」ではなく、「躊躇なく10点をつけること」

 

なのだ

 

10点を付けても、誰もあなたを「モノを知らない人」とは思わない

 

では、何が、人間を老いさせるのか。端的に言えば「恐怖」だ。自分が「何も知らない人であると他者に思われること」、その恐怖なのだ。知識だけを追う人間は、絶対的に勝ち続けることはできない。

 

なぜなら、世界には、ありとあらゆる知識が存在しているからだ。陳腐な例でいうと、東京で生まれ育った人は「十三」という地名を読めないし、地方で生まれ育った人は「渋谷駅」でうまく乗り換えができない。

 

そして幼い頃から「知識とは武器である」と教え込まれてきた人間は、自分が物を知らない人間であると思われることを、恐ろしく嫌う。僕もそうだと思う。そういう人は、まだもっといい物があるかもしれない、過去にもっといい物があった、という知識を引き出してきて「8点」をつけるのだ。

 

だが、安心してほしい。10点をつけても、あなたを誰も「物を知らない人」だとは思わない。むしろ、歳をとればとるほど「10点をつけること」の価値は高くなっていく。どういうことか?

 

最強の生存戦略は「躊躇なく、良いモノは良い」と言えること

 

この数年で、いわゆる“すごいオッさん”とたくさん話してきたが、共通点がある。彼らは若い頃から「老害になること」に対する、対策を打っているのだ。どれだけ偉大な人物でも、歳はとり、やがて死ぬ。そして、老いは思考を狭め、若い人に対するディスアドバンテージを生み出す。

 

そして、悲しいことに、平均値でみると、いつの時代も若い人には勝てない。世の中にとりまく、技術や思想は進化し、その中で彼らは育ってきている。自分たちよりも科学的で、進化した環境で若い頃から育ってきた。僕もあなたもそうだ、勝てるわけがないのだ。

 

だから、抜かれていくのは当たり前の話なのだ。というか、抜かれていないとしたら、その社会はまずい。環境が進化していないということだからだ。次のバトンを渡すことこそが、21歳のあなたの未来の宿命なのだ。

 

となると、先に年老いている僕らがやるべきことはなにか。それは、「躊躇なく、良いモノは良い」と言えることなのだ。若いあなたたちを支えることなのだ。この戦略は若者のためだけではない。自分のためになる。

 

なぜなら、「躊躇なく10点をつけること」は、普通の老人にはできないことだからだ。それをメタ認知し、躊躇なく、いい物はいいと言い続けること。これだけで、差別化になり、あなたの強い生存戦略になる。

 

何がいいたのか? それは

 

最強の生存戦略は「躊躇なく、良いモノは良い」と言えること

 

である、ということだ。

金曜の夜に「早く月曜こないかな」と呟いたら、女の子にブチ切れされた話

ああ。なぜ男とはここまで愚かなものなのだろうか。言ってはいけないことを言ってしまった。全てはこの一言から始まった。

 

「早く月曜来ないかな」

 

魔弾だった。他意はなかった。だが、一度放った言葉はめちゃくちゃに世界を巻き込み、彼女の鼓膜までたどり着いた。

 

「……え?」

 

「……ん?」

 

「なんて言った? 今」

 

「へ……っ?」

 

“金曜日の夜”というのは、サラリマーンにとって審判の一日だ。その一週間よく働いた者はビールを甘く飲む権利を持ち、その1週間ヘマをした人間は3日後にくる月曜の朝が憂鬱になる。だが、俺はそれをはるかに超えてナチュラルにこう思った。

 

「早く、月曜来ないかなー♪♪」

 

そう、ここまでは良かった。だが問題はそこじゃない。それをあろうことか、金曜の夜にシャンパンを持ち、俺と会うことを2週間前から楽しみにしていた女の子の前で呟いてしまったことだ。

 

そして今、彼女はシャンパンを静かにテーブルの上に置いた。そして真っ直ぐ俺の方を見てこう言った。

 

「それってさ、どういう意味?」

 

「……あ、いや、えーっと」

 

「はい。」

 

「……違う。違うんだ」

 

一体全体、何が“違う”のだろうか? この世界に普遍的なルールがあるとしたら、それは男がいう「違う」という言葉は一切“違わない”ということだけだろう。これぐらい俺も大人なのでよく知っている。こうなるともはや何を言っても意味はない。一度放った言葉は決して戻ってこない。俺は確信した。

 

「これは、ただひたすらに、謝るしかない」

 

同時に俺は、そもそも、女が抱える矛盾も痛感していた。俺のこの病気を名付けるとしたら“空気読めない病”だろうが、彼女の症状は「仕事好きな人が好きだけど、私だけが特別でもいて欲しい病」だ。もはや1つの定理なのではないかというほど、世界に遍在している理論だ。

 

 

・論点:「仕事って、楽しくあるべきなのか?」

さて、この問題は極めて強烈な問いを我々人類に問いかけている。それは

 

—   仕事って、そもそも、楽しくあるべきなのか?

 

ということだ。だが、この問題を解くためには、まず「性癖とは何か」について説明しなければならない。俺に100の性癖があるとして、その中で一番問題を起こし得る性癖があるとしたら、おそらくこれだろう。

 

 バリキャリ女子が、好きすぎる。

 

そう、俺は仕事が好きな女子や、バリバリ働く女子が好きすぎるのだ。例えば、友達にもし「マッ◯ンゼーの女の子と飲むんだけど、くる?」と言われたら俺はすべての仕事を投げ捨て1秒でイエスと返信するだろう。あるいは、ゴールドマンサッ◯スならどうか? もはやノールックで付き合ってくれないかなという気分になる。もっというと「30歳で会社を経営しています」なんて女性と会おうもんなら結婚すら頭によぎる。

 

少なくとも俺は俺以上に “バリキャリ女子が好きな29歳のオス”を東京の渋谷区では見たことがない。少なくともそう勘違いするほど、バリキャリ女子が好きなのだ。したがって俺はしばしば友達にこの話をするが、いつもこう言われる。

 

「全く理解できない」

 

「理由は?」

 

俺はこの質問をしてくる時点で、ばかたれと怒りたくなるが、その気持ちをぐっとこらえて、その理由を真面目に答えるとしたらこうだ。

 

“確かに積み上げてきたものと、それに相反する2つの気持ちが両立している姿に、美しさを感じるから”

 

 

……

……

……

意味不明だって? うん、きっとこう思っただろう、「よくわからん」と。

 

間違いない。俺も俺自身が今何を言っているかよく分からなかった。だが、ちゃんと説明したい。世界には実は2つのルールが存在しているということを。

 

・世界には「相関のルール」と「逆相関のルール」が共存している。

 

世界には、様々なルールが存在しているが、その根元には、さらなる2つの「大ルール」が存在している。

 

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 参考:世界には2つの大ルールが存在している

 

俺がバリキャリ女子が好きな理由は、普通なら「相反してしまう2つ」が共存していることが、男の世界ではなかなか起こり得ないからだ。例えば、男というのは単純なルールで、1つの数値が高ければ、他の項目にも正の相関を与える傾向にある。例えば、背が高いほどモテる。金を持っているほど、モテる。賢いほど、モテるだ。だが、女性は必ずしもそうではない。

 

だからこそ、「男性ですべてを持つ人」よりも、女性でそれを持つ人に、とてつもない魅力を俺は感じるわけだ。俺は俺ごときがどれだけ頑張っても決して乗り越えることの出来ないであろう、圧倒的な美しさをそこに見いだす。

 

言い換えれば、俺のような男はいつまでたっても、2週間前から俺と会うことを楽しみにしてきた女の子の前で「早く月曜来ないかな」というような無神経な発言ができてしまうわけだ。なぜなら、俺の中に相反するルールが存在していないからだ。

 

……さてここまで聞いて、あなたはこう思っただろう。

 

「この人変わってんな」

 

だが、ちょっと待って欲しい。俺は真剣に思うのだが、俺は変わっていない。むしろおかしいのは世界の方だとマジで思っている。むしろ、一体あと何年経ったら、世界は俺に追いつくのだろうか?とすら思う。

 

……

 

これはちょっとだけ、言いすぎた。

 

・金曜の夜に、いうべきこと

 

とにかく、そろそろ終わりにしたい。

 

一体、こいつは、何が言いたいのかって? それはというと

 

 世界には相反するものが、もっとあってもいいのじゃないか。

 

ということだ。かつて俺は「人類は、映画を1.4倍速で見てもいい」という定理を証明したが、その時に、世界にはサプライヤーロジックと、ユーザーロジックの2つがあることを説明した。

 

だが、このとき、俺はもっと根本的で大事なルールの説明を省いた。それが、まさにこの「大ルールの違い」だ。具体的には「小さなルール」の違いは、人は乗り越えることはできるが、「大ルール」の違いを人は完全には乗り越えることは出来ないという絶対的な限界線だ。

 

俺は確かにダメな人間だ。おそらくこんな下らない文章を最後まで読んでくださった男女の99%が「この人モテなさそうだなー」と思って、生物として俺を今見下していることだろう。これは間違いない。別にいい。俺は空気が読めないことだけが唯一強みのビジネスパーソンだ。だが、それでもこれだけは得意なことがある。それは

 

「違う大ルールで生きている人間の美しさを認めること」 だ。

 

かつて、物理学者のニールス・ボーアはこう語った。

 

『この世には、2種類の真実が存在している』

 

2種類の真実とは、「小さい真実」と「大きな真実」である。そして、小さい真実は簡単に見つけることができる。なぜなら、その反対が虚偽だからだ。だが、「大きな真実」は見つけるのが難しい。なぜなら、その反対には、もう一つの真実があるからだ。

 

さて、

 

今でも正解が分からない。だから教えて欲しい。

 

俺は、あの夜、なんと言えば良かったのだろう? と。

 

 

  
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「好きを仕事にする」理由、ロジカルに説明できますか? 為末×北野

 

トレードマークの“あご髭”に手を当てながら、為末さんは呟いた。


自分の人生を生きる、これにしよう

 

テーマが決まった。今年の夏にインタビューしてから半年。何回か打ち合わせを経て、対談のテーマが決まった。そして先週末、中目黒で、15名限定のトークイベントを行った。議題はもちろん「自分の人生を生きること」だ。

 

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イベントの帰り道、僕はぼんやり考えた。根本的な問題はどこにあるのだろうか。言い換えれば

 


「なにが、人々を、不安にさせているのだろう?」と。

 


結論から言おう、現代のビジネスパーソンを不安にさせている原因は

 

 どの世界でも自分らしく生きていける、そんなイメージが湧かないこと。

 

に、違いない。


どういうことか?


世界はグローバルカンパニー、ローカルチャンピオン、フリーライダーに三分されていく

先日、面白い記事を読んだ。孫正義と、(当時は後継者と言われていた)ニケシュとの対談だ。

 

孫:まあ、私はサービスやコンテンツというところではローカルチャンピオンが強いと思っています。ここに好機があると思います。例えばインド、日本、中国。こういったところは十分なサイズの国ですから、ローカルの創業者にチャンスがあります。(以下略)

http://logmi.jp/106598

  

僕はこれを読んだ瞬間に「まさにその通りだ」と感じた。ソフトバンク自身は間違いなく “グローバルカンパニー”を目指している。一方で現代は、“ローカルチャンピオン”の時代でもある。卑近な例でいうと、Youtuber、オンラインサロンを代表とされる「個人」の時代だ。これらは一見すると矛盾する流れに見える。だが、世界が「3つに分断されていく」と考えると、整理が付く。 

▼世界は3つに分類されつつある

・グローバルカンパニー ……世界的に展開する企業。流通コスト、規模の経済で「最強の合理性」を持っている

・ローカルチャンピオン ……「共感」や「感情」をもとに価値を出す企業。コンテンツやサービス領域以外の産業は淘汰される。

フリーライダー ……国や地方自治体などの補助がなければ、実質的に生きていけない人たち。

 


簡単に説明するとこうだ。


今後、“グローバルカンパニー”が、ほとんどのローカルな企業を統合していく。ローカルな企業は「合理性」では彼らに勝てない。だが「共感」や「感情」を軸にしている部分だけは勝てる。それに勝ち抜いた人々は「ローカルチャンピオン」として生き残る。一方で、ローカルな企業から溢れ出した人は失業し、社会保障によって生きていく。つまり「ただ乗りする人」(フリーライダー)だ。


そして、言うまでもなく“フリーライダー”を、理論上可能にするのは、ベーシックインカム論議だ。グローバルカンパニーが、人類の無駄を圧倒的に排除することで、これまで「ローカルな企業」として働いていた人は、フリーライダー”として生きていく事ができるようになる。あるいは、「生きていかなければならない」。これが


世界は3つに分断されていく、ということだ。

 

問題は「どこにも置いてけぼりの、僕」という存在

世界のこの流れは、凄いことだ。資本主義と社会主義ミックスされたような「究極の形」に近い。それは合理的であり、止めることは難しい。だがミクロで見た時、問題は別にある。問題は



という存在なのだ。言い換えれば、世界が変わり行く中で、自分だけが追いつけていけていない感覚。これが問題なのだ。


 多くの人が実は「グローバルカンパニーの中で生きて行くことに、違和感」を感じはじめている

想像してほしい。あなたは、自分がグローバルカンパニーで働くイメージができるだろうか。本屋が潰れ、地元の友達が「Amazonで働くイメージ」は湧くだろうか。ドメスティックに生きてきた日本人にとって、グローバルカンパニーで働くことは、全くイメージできないことなのだ。


では、そんな頑固な僕らは、どうやって生きて行くことができるのだろうか?
それが2つ目の「ローカルチャンピオンとして生きて行くこと」だ。だが、ここにも問題がある。


ローカルチャンピオンの価値は、「共感」や「感情」にある。そもそもタレント業や、キャバクラなどの感情労働が存在しているのは「共感するもの」は、ビジネスになるからだ。そして、ローカルチャンピオンとして生き残る為に必要なのは


 好きなものを持っていること


なのだ。Youtuberの「好きを仕事にする」、ホリエモンの「仕事は遊びになる」という言葉が分かりやすい。ローカルチャンピオンは「好きなものを持っている人」が最強なのだ。


でもこれは日本人にとっては簡単なことではない。日本人は「好きなものを持つトレーニング」を受けてこなかった。したがって、グローバルカンパニー、ローカルチャンピオンにもなりきれない。その事実に不安なのだ。


「Fearとdanger」は違う:リスクを正しく認識する機会が必要

為末氏は対談の中で、何度か、「Fearとdanger」は違う、という話をした。これは間違いない。僕らは、危険(danger)を正しく認識出来ない。必要以上に、恐怖(fear)を感じる。


だが、本来はこの「安全であるか」という心配は、不要なはずだ。なぜなら、それを解消するのが、ベーシックインカムの考え方だからだ。公務員の費用を極限まで削減し、コストを再配分する、結果、全ての人が最低限生きて行くことができるようになる。この構造を理解していないから、なんとなく不安になるわけだ。現代において大事なのは「Fearとdangerを分けて考え、正しくリスクを認識すること」なのだ。

 

 

 1/21(日):第二回、為末大×北野唯我トークイベントをやります。

1回目のイベントを終えて、僕らは打ち上げをした。飲み会も終わろうとしていたとき、為末さんから、興味深い発言があった。こうだ。


2020年から、日本のセカンドキャリアが始まる

 

これは的確な指摘だ。テクノロジーは進化し、変化のスピードはかつてないほどの早くなった。そんな中で僕らは、“自分の人生を生きること”を急に求められはじめている。勘の鋭い人達はもう気付き始めている。そしてそんな人達を集めて、議論できる場が求められている。


自分でいうのもなんだが、為末さんや(もう一人の相方である)高木新平と、僕は、比較的良い組み合わせだと思う。彼らはアイデアフルだ。その拡散された思考を、僕が構造的に捉え直す。自分が参加するイベントは、単に不安をあおるだけのイベントではなく、できるだけ「構造的に」そして「建設的に」進めていきたいと思う。


第一回は、満足度9.0点/10点、「また参加したい」という人が94%だった、為末さんとのイベント。後悔することはないかと思います。一緒に議論し、知恵を貸してくださる方を探しています。

 


イベントの詳細はこちらから

 

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