「25歳以降」は挑戦できない。 あまりにも早く「会社との結婚」を求められる僕たち
UFJの預金残高は、赤信号を灯していた。
もともと数百万円以上あった貯金残高は、ついに7万円を切った。そして俺は今、無職、26歳。握りしめた手には「夜行バスのチケット」以外何もなかった。
新宿駅のバスターミナルに降り立ち、朝日を見ながら俺は悟った。
—「レールから外れること」
これは日本でいうと、死を覚悟することだった。もちろん、これだけ社会保障が発展した国において、現実的な「死」の感覚はない。「ビジネスパーソンとしての死」だ。肌がヒリヒリした。
そもそも、資本主義の社会には、3つのプレーヤーが存在する。(1)投資家、(2)経営者、(3)従業員だ。そして無職の俺はどのレイヤーにも所属していなかった。そしてそこに戻れる見込みは、限りなく0%に近いように見えた。
社会から「お前は不要である」というレッテルを押し付けられた気分になりながら朝の地下鉄に乗ると、不思議な感覚を覚えた。普通に大企業で働き、文句を言いながらも「毎朝出社する場所がある人」がやたらに羨ましく見えたのだ。
地獄の底から見えるサラリーマンは、一瞬だけ輝いて見えた。
レールから外れることが、これだけデメリットになる国はない
先日、25歳の男の子と出会った。彼は若いころにいろいろ苦労し、今まさに、新しいスタートを切ろうとしていた。「25歳はギリギリですよね」と語る彼は、素晴らしい出会いに恵まれていたが、多くの人はそうはならない。
これはデータを見るとわかりやすい、「離職期間が長いこと」は資本市場で死ぬための、大きなファクターになりえる。顕著なのが女性で、一度離職した人が正社員に再雇用される割合は、国際的に見ても低い。実際、転職に成功した人のうち、10ヶ月以上の離職期間がある人は全体の8%弱にとどまる*。
*1……平成27年転職者実態調査の概況|厚生労働省より
だが、これはおかしな話だ。もしも、1年の離職期間が影響を与えるのだとしたら、留年や浪人はどうなるのだろうか。出産と育児休暇はどうなるのだろうか。
金融機関をはじめとして「ブランク」を気にする企業は多く、僕らは完璧であることを求められている。だが、人生100年時代において「1年」など、誤差の範囲であるはずだ。
「25歳以降」は挑戦できない。あまりにも早く「仕事との結婚」を求められる僕たち
もう少しデータを丁寧に見たい。そもそも「仕事を変える」とはどういうことだろうか。1つは「業種を変える」ということであり、もう1つは、「職種を変えること」だ。そして日本は後者、つまり「職種選び」がとても難しい国だ。
その理由はシンプルに「職種を変えること」が、25歳を超えると、とても難しいことだ。
だが問題は別にある。それは、この「職種」をコントロールできる権利が、実質的には企業がもっていることだ。日本のほとんどの企業は「総合職一括採用」を行っている。この制度は、入社してから配属が決められる制度であり、すなわち、入ってから「何するか決まる」わけだ。
言うならば「君はXX商事に勤めたいのであって、マーケティングがしたいわけではないよね?」と問いかけられているわけだ。
そしてあみだくじで選ばれた場所に不服があれば、25歳までに早急に声を挙げる必要がある。それ以降は遅い。かつて元Googleの村上氏はこう語ってくれた。
僕:村上さんは、これまでのキャリアを通じて、数々の意思決定をしてきたと思います。学生にとって、就職活動は、人生初めての大きな意思決定の機会です。正解が見えないなか、意思決定をするうえでの秘訣はなんですか。
村上:私は、人生は「あみだくじ」だと思っています。つまり、選んだことがないのに、そっちを選ばなかったことを後悔するなということです。もしかしたら、そっちの道の方がもっと酷かったかもしれないわけだし、自分の決断を後悔することはやめなさいと。あとは、どんな選択をしても、その選択の結果として手に入れられることは、すべて手に入れ、身につけろというふうに思っていますね
そう、キャリアとは、あみだくじなのだ。
年上が語る価値観に違和感を感じても、それは全く変ではない
仕事選びは、ときとして「家族」を巻き込むことが多い。親は子を心配し、子どもは親に心配をかけたくないと願う。両方とも思いがあり、無知であるがゆえにおきる衝突。だが、必ずしも、年長者がキャリア選びに対して、聡明であるとは限らない。むしろ新鮮な感覚を持ち、社会のトレンドを捉える力は、若い人こそ強い。つまり
「大企業で違和感を感じること」
それは、全くもって異常なことではないのだ。50年以上前に作られたビジネスや、制度システムが、今の僕らの肌感覚に合っている保証はなにもない。50年前に作られたものといえば、「白黒テレビ」であり、あなたは白黒テレビで「YouTubeを見ろ」と言われたら、どう思うだろうか。アプリケーションは変わる、だが、インフラはそう簡単には変わらない。単純にそれは「組み合わせの問題」でしかないのだ。
大企業で働けないこと、
それを周りに言うと「変だと思われること」。これは決して、あなたの感覚が変なのではないのだ。むしろ、既存のシステムに違和感を感じれる、天才である可能性も十分にあると思うのだ。僕は彼にこの言葉を送りたくなった。
「適職と、天職の違い」で悩む、35歳。
先日、中目黒で30歳前後の人に向けた、トークイベントを行った。会場から見ると、まさに対照的な二人が話しているように見えただろう。
相方の高木は、いかにも「クリエイターっぽい」金髪の男。僕は、いかにも「アナリストっぽい」神経質そうな黒髪。
そんな二人をよく知る人は、僕らを「右脳と左脳」と称した。それぐらい違う。
僕は会場を眺めながら、少なからず何かしらの悩みがあって訪れたであろう20名の参加者に対して、ぼんやりこう感じた。
— あぁ、やっぱり、キャリアというのは、「恐怖」との戦いなんだなぁ、と。
あなたと、全く同じキャリアを歩む人は誰一人もいない。だから多くの人が相談したいし、議論したいのだと思う。
振り返ってみると、人は「恐怖をどう捉えるか」によって行動パターンがきまっている。そしてこの“行動パターン”は、恋愛でもビジネスでも、(予測可能な範囲の)結果をほとんどコントロールしている。
キャリアというのは、まさにこの「恐怖」との戦いなのだと思う。冷静に考えて、僕らと、全く同じキャリアを歩む人は誰一人もいない。自分と同じ顔に生まれ、同じ歳で結婚し、子どもを産み、同じ仕事を与えられる人などいない。だから多くの人が自分のケースを相談したいし、議論したい。第一回のイベントで、定員20名に対して、280名もの応募があったのは、誰もがこの「恐怖」に立ち向かっている証左なのだと思う。
僕は不幸なのか、幸いなのか、20代で大企業を二回やめているため、その気持ちがとてもよくわかる。恐怖との戦いだった。そして今、振り返ってみてこう感じている
— 日本のビジネスマンが抱える悩みは、大きく3つに集約される、と
「適職と、天職の違い」で悩む、35歳に伝えたい
先日、大学時代の先輩から久しぶりにメールが届いた。先輩は、この記事を読んだらしい。
「仕事を楽しむ方法」について書いたこの文章は、強い反響があり、「3日連続読んで、3回泣きました」という言葉までもらった。20代の、理想と現実の狭間に揺れる、リアルな気持ちを突き刺す文章だったのだと思う。
僕はその頃から“この病”に、名前をつけるとしたら、なんだろうか?をずっと考えていた。そして、どうやら日本のビジネスパーソンの悩みは3種類に分かれることに気づいた。
25歳:やりたい業務と、担当している業務とのGAP(やりたいことできない)
30歳:会社のステータスと、自分の実力のGAP(社会的な評価への違和感)
35歳:適職と、天職のGAP(心からワクワクしない)
メールをくれた先輩は今、35歳。そんな彼が悩んでいたのは、この3つ目だった。言い換えれば
「適職と、天職の違い」
だった。適職は、自分に合っている仕事。天職は、その人だけに与えられた仕事。両者は少しだけ違う。
天職は「自分のことを表現できている実感」を味わえるか、どうかで判断できる
では、一体、天職とはなんなのだろうか?
これに最も的確に答えた言葉は、元アスリートの為末大さんの言葉だと思う。為末さんは、以前、対談させて頂いたことがある。
僕:「天職とは何か」ということをお伺いします。僕は天職を「お金が死ぬほどあってもやりたいこと」と定義していますが、為末さんはいかがでしょうか?
為末:おっしゃることに同意します。もし僕なりの解釈を入れるとしたら、「自分を表現できている」実感があるかどうかですね。会社を始めてから、世の中には溢れるほどやりたいことがある人ばかりじゃないことに気付きました。そんな人たちにとっての幸福な仕事の仕方は「何でか分からないけど、すごく上手にできる」とか「どうしてこんなに人に喜ばれるんだろう?」みたいなところにあると思います。それって、自分を表現できているかどうかなんですよね。
そう、まさに僕が先輩に伝えたかったことは、これだった。適職と、天職はとても似ている。適職は「自分がうまくやれること」であるし、「稼げること」でもある。だが、天職は違う。天職はこれに加えて「自分を表現できている」という強い実感があるのだ。
例えば、ある有名なウェブライターは、自身の執筆業について聞かれたとき、「息を吸うように文章を書いている」と笑顔で語っていた。彼女にとって、書くことはまさに自分を表現できているという実感を感じるものなのだ。
このように、天職は「自分を表現できている」という実感を伴うものなのだと思う。
特別なのは、その仕事ではなく、先輩。あなたなのだと思う
僕が先輩に感じた違和感もまさに、これだった。先輩は大学時代から「つくること」を楽しめる人だった。こういう人は、どこに行っても大丈夫だ。周りといい関係を築けるし、他者と共同し、仕事の本質をまっすぐに進むことができる。彼のような人間は、転職しても活躍できるし、大企業でも、ベンチャーでも楽しむことができる。
だが、この「つくることを楽しめること」は残念ながら、誰もが与えられた才能ではない。努力を前向きに積み上げてきた人にだけ与えられたギフトなのだ。小学、中学、高校、大学と「与えられること」に慣れてきた人たちにとって、「つくること」を楽しむことは容易ではない。だが、先輩はそれができる素養があった。
だから、僕はこう伝えた。
特別なのは、その仕事ではなく、先輩。あなたの方なのだと思います
冒頭に書いた通り、人間を支配しているのは「恐怖をどう捉え、行動するか」だ。そして恐怖の正体は大体「よく知らないこと」と「勇気が足りないこと」に起因している。だから僕らは、その背中を押すイベントが必要だと思った。
11月4日(土)、第二回目のトークイベントを行います
11月4日(土)に、第二回のトークイベントをやる。本当はこの記事で募集するつもりだったが、今回も、早くも定員に達したため、もし興味があれば、3回目(←実施するかわかりませんが。。。)にご参加いただければ、と思う。
Event Registration第二回:高木新平×北野唯我 トークイベント 11/4(土)15時〜
とにかく、僕はこれから“日本の25歳~35歳が抱える病”を解き明かしたいと思う。
「性欲とは何か」をロジカルに考え続けた、13歳の青年の”その後”を追った
夏のある日。蒸し暑いベッドの上で、13歳のその少年は考えていた。
「性欲は何を目的にコントロールされているのか?」
実存主義の考えを持つ「少年」は、全てのものは「目的に従って動いていく」と考えていた。だとすれば、性欲にも当然なんらかの目的があり、その目的さえ理解すれば、性欲をコントロールできるのではないかと考えていたのだ。つまり彼の関心が
— いかなる目的であれば、性欲をゼロまでコントロールできるか
と、発展していくのも至極当然のことであった。やがて時は流れ、5年が経ち、彼は18歳の男になった。
彼の関心はやがて究極的な観念にまでたどり着きつつあった。それは
ブラックホールの“つぎ”
と彼が呼ぶものであった。
彼自身は、世界には2つの種類があると信じており、1つは「物質的な世界」であり、もう1つは「それを認知する世界」であった。そして、ブラックホールが全ての“物質を吸い込む”という意味で、「物理世界の終着点」だとするならば、それを取り巻く「認知や関心」の終着点はどこにあるのか。例えるなら「精神のブラックホール」とも呼べるであろう、認知の終着点を知りたくなったのだ。
だが、彼はすぐさま自己がかかえる「矛盾」に気づいた。人々の“関心”は常に「時間」によってのみ観察することができるため、「関心そのもの」を客観的に把握することができなかったのだ。すなわち、彼の関心はより具体的にいうと、こうであった。
「人々の”消費時間”は、何に集約されていくか」
— 今回のテーマである。
やがて「青年」は歳をとり、29歳の大人になった。彼の幼少期の性質を鑑みると、彼は自分がどんな大人になるのか、そもそも物質として存在しているかすら想像できなかった。そこである時、私は彼に問うてみた。「お前は一体、どんな大人になったのだ」と。
彼は答えた。
「理屈っぽくて、めちゃくちゃ面倒くさい、ブロガー」
うん、もちろん、それは私であるが、私は生まれながらに、めんどくさい13歳の少年である。では今、そんな私が好きな芸能人は誰か? もちろん、ヒュージャックマンである。
論点:「性欲は、精神のブラックホールではない」のではないか?
ともかく13歳の私は、とある仮説を導き出した。それは
「性欲は、精神のブラックホールではない」のではないか
ということだった。なぜなら、性欲が全ての“関心”の終着点であれば「年をとると減退する」のは合目的的ではないと思ったからだ。だが、一般的には、三大欲求は「究極的なもの」だと言われる。おかしい。
どういうことか?
言い換えるのであれば、「子孫を残すこと」が性欲の最大の目的であれば、歳をとればとるほど、死の可能性は高くなるため、性欲も高くなるはずである。しかし実際はそうではない。人間は一般的に、20~30歳が性欲のピークだと語られることが多い。では、なぜこんなねじれが起きているのだろうか?
考えられる可能性はいくつかある。
(1)医療の技術が進歩したことで、「寿命が伸びすぎたこと」。つまり本来はピークである30歳で人間は生き絶えるはずだった、ということだ。あるいは、(2)晩年では「子ども」を育てることにフォーカスしたほうが、結果的に子孫が残せる可能性が高くなること、などが考えられる。
さて、私自身はこの問いに対する正解には全く興味ゼロなのだが、ブラックホールがどこに収斂されていくのかには興味がある。
結論からいうと、それは
「猫と美女」
である。つまり、「美しいもの」と「可愛いもの」である。
スマホの登場によって、「美しいもの」は、歴史やバックグラウンドを必要としなくなった
そもそも全てのものはマクロで見たとき「本質的なものに、集約されていく」傾向がある。
例えば古代から美女は戦争を起こすほどに影響力があり、クリーンで美しい街・空間というのは、時代を超えても人々を惹きつけ続ける。今なお、我々がパリの凱旋門に惹かれ続け、ウユニ湖を目指すのは「美しいもの」であるからである。
だが、現代になり、テクノロジーの進化によって「美しいもの」を見つめる主体である我々は、変化を強いられるようになった。最大の変化は「時間」の単位だった。"隙間時間"という概念が生まれ、時間はより細分化された。人々は仕事の合間に、トイレにこもってパズドラをするようになり、PCでメールを返す振りをしながら、LINEでくまさんを送り合うようになった。インスタグラムで世界一フォローされている人物のフォロワー数は1.2億人となり、もはや国家を超えた数の人間が彼女の挙動に注目し始めた。
そして人々が、よりインスタントで、断続的なコンテンツを求めるようになった結果、1つの変化を起こした。それは、
美しさに、歴史が必要でなくなっていくこと、だった。
かつて、美しさには、「歴史やバックグラウンド」が必要であった。人々は、オードリーヘップバーンの美しさに、映画やドラマを通して「物語」を内在させ、強化していた。自分が住む風景に、「歴史」を読み込み、美しさをより感じていた。だが、時代は変わり、時間が細分化されたことで人々は「物語」を消化する時間を持たなくなった。東京では映画を1.4倍速で見るような男も生まれ始めた。
つまり、人々がより消費するようになったのは、
単なる「美女」
になっていった。それは全てがなくなるわけではなかったが、収斂されつつあった。美女は歴史とともに保有されるものではく、限りなくフォトジェニックに消費されるものに近づいていっていった。
美女の弱点は、美に潜む「攻撃性」
一方で「美女」にも弱点があった。それは「美に潜む、攻撃性」であった。
人は、圧倒的に美しいものを見たとき、憧れつつも、「自分の弱さ」を痛感せざるを得ない。自分は「彼、彼女と比べて、無力すぎる」ため、仮に美女にその意図がなかったとしても、我々は動物としての自分の無力さを感じてしまうのだ。
したがって、人は美しいものを求めると同時に、全く攻撃性のない存在を求める。それが一言でいうのであれば、「圧倒的に、かわいいもの」だった。人が赤ん坊を見て、愛情を抱くのは、全くの無防備で、1ミリの攻撃性も兼ね備えていないからである。では、「物語を持たずとも、圧倒的にかわいいもの」、それはなにか?
そう、キティ、子猫だ。
思えば、人は「可愛いもの」に対する絶対的な執着心がある。幼少期のハローキティとスヌーピーに始まり、ジャニーズとAKB、犬と猫、甥っ子とひ孫、ペッパーと孫正義。人間は何歳になっても常に「丸くて、かわいいもの」だけは求め続けているのだ。だが、当然の事実として「かわいいもの」は文化的な背景に強く影響を受けるため、テクノロジーが進化する前は、国境を越えることが難しかった。だが、今やITの進化によって、国境を越えることは簡単になった。
つまり、ネコは国境を超え始めたのだ。
人々は「思考停止」し、猫と美女だけを見るようになってきた
「一体、こいつは何がいいたのか?」
あなたはイライラし始めたころだろう。
待て待て。このせっかちさん。2つある。1つはコンテンツに関することだ。
かつて、月間150億PVのヤフトピを作った、奥村倫弘氏は著書の中で「メディアは猫に支配されていく」という趣旨のことを語った。いわく「猫はPVを稼ぐための最高のコンテンツ」なのである。
(『ネコがメディアを支配する -ネットニュースに未来はあるのか』)
私はこれを読んで「全く同じことを考えている人がいる」と勝手ながらシンパシーを感じた。そして同じように私が13歳の自分に言いたかったのは、
Instagramが作り出す世界の先は、「関心の世界」であり、そこは二人の覇者がいる。
それは「仔猫」と「美女」だ。
もう一つは、もう少し実用的なことである。
私は友達には、もはや「ほぼブロガー」だと認識されつつあるが、一応副業は、ITベンチャーで役員として働いている。というか、億単位の提案もしているし、50名近い部下がいるから多分、そっちが本業だと思う。というか、ブログは1円もお金になっていないし、する気がないから、そっちを本業にせざるを得ない。とにかく「ほぼブロガー」と思われている私が、仕事で大事にしているのは、これだ。
— 本質的な関心に投資しつづけた、組織が勝つ
もう少し平易に言い換えるのであれば、
「よし、オフィスに、子猫を置いてみようかな」。そんな気分なのだ。
さて今度こそ終わりにしたい。あなたに問いたいのはこうだ
オフィスに子猫を置こうとしているITベンチャーの役員
果たして、あなたは、どう感じるだろうか?