『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

「性欲とは何か」をロジカルに考え続けた、13歳の青年の”その後”を追った

 

夏のある日。蒸し暑いベッドの上で、13歳のその少年は考えていた。

 

「性欲は何を目的にコントロールされているのか?」 

 

実存主義の考えを持つ「少年」は、全てのものは「目的に従って動いていく」と考えていた。だとすれば、性欲にも当然なんらかの目的があり、その目的さえ理解すれば、性欲をコントロールできるのではないかと考えていたのだ。つまり彼の関心が

 

—   いかなる目的であれば、性欲をゼロまでコントロールできるか

 

と、発展していくのも至極当然のことであった。やがて時は流れ、5年が経ち、彼は18歳の男になった。

 

彼の関心はやがて究極的な観念にまでたどり着きつつあった。それは

 

 ブラックホールの“つぎ”

 

と彼が呼ぶものであった。

 

彼自身は、世界には2つの種類があると信じており、1つは「物質的な世界」であり、もう1つは「それを認知する世界」であった。そして、ブラックホールが全ての“物質を吸い込む”という意味で、「物理世界の終着点」だとするならば、それを取り巻く「認知や関心」の終着点はどこにあるのか。例えるなら「精神のブラックホール」とも呼べるであろう、認知の終着点を知りたくなったのだ。

 

だが、彼はすぐさま自己がかかえる「矛盾」に気づいた。人々の“関心”は常に「時間」によってのみ観察することができるため、「関心そのもの」を客観的に把握することができなかったのだ。すなわち、彼の関心はより具体的にいうと、こうであった。

 

「人々の”消費時間”は、何に集約されていくか」

 

—   今回のテーマである。

 


 

やがて「青年」は歳をとり、29歳の大人になった。彼の幼少期の性質を鑑みると、彼は自分がどんな大人になるのか、そもそも物質として存在しているかすら想像できなかった。そこである時、私は彼に問うてみた。「お前は一体、どんな大人になったのだ」と。

 

彼は答えた。

 

「理屈っぽくて、めちゃくちゃ面倒くさい、ブロガー」

 

うん、もちろん、それは私であるが、私は生まれながらに、めんどくさい13歳の少年である。では今、そんな私が好きな芸能人は誰か? もちろん、ヒュージャックマンである。

 

論点:「性欲は、精神のブラックホールではない」のではないか?

 

ともかく13歳の私は、とある仮説を導き出した。それは

 

 「性欲は、精神のブラックホールではない」のではないか

 

ということだった。なぜなら、性欲が全ての“関心”の終着点であれば「年をとると減退する」のは合目的的ではないと思ったからだ。だが、一般的には、三大欲求は「究極的なもの」だと言われる。おかしい。

 

どういうことか?

 

 

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言い換えるのであれば、「子孫を残すこと」が性欲の最大の目的であれば、歳をとればとるほど、死の可能性は高くなるため、性欲も高くなるはずである。しかし実際はそうではない。人間は一般的に、20~30歳が性欲のピークだと語られることが多い。では、なぜこんなねじれが起きているのだろうか?

 

考えられる可能性はいくつかある。

 

 (1)医療の技術が進歩したことで、「寿命が伸びすぎたこと」。つまり本来はピークである30歳で人間は生き絶えるはずだった、ということだ。あるいは、(2)晩年では「子ども」を育てることにフォーカスしたほうが、結果的に子孫が残せる可能性が高くなること、などが考えられる。

 

さて、私自身はこの問いに対する正解には全く興味ゼロなのだが、ブラックホールがどこに収斂されていくのかには興味がある。

 

結論からいうと、それは

 

「猫と美女」

 

である。つまり、「美しいもの」と「可愛いもの」である。

  

スマホの登場によって、「美しいもの」は、歴史やバックグラウンドを必要としなくなった

 

そもそも全てのものはマクロで見たとき「本質的なものに、集約されていく」傾向がある。

 

例えば古代から美女は戦争を起こすほどに影響力があり、クリーンで美しい街・空間というのは、時代を超えても人々を惹きつけ続ける。今なお、我々がパリの凱旋門に惹かれ続け、ウユニ湖を目指すのは「美しいもの」であるからである。

 

だが、現代になり、テクノロジーの進化によって「美しいもの」を見つめる主体である我々は、変化を強いられるようになった。最大の変化は「時間」の単位だった。"隙間時間"という概念が生まれ、時間はより細分化された。人々は仕事の合間に、トイレにこもってパズドラをするようになり、PCでメールを返す振りをしながら、LINEでくまさんを送り合うようになった。インスタグラムで世界一フォローされている人物のフォロワー数は1.2億人となり、もはや国家を超えた数の人間が彼女の挙動に注目し始めた。

 

そして人々が、よりインスタントで、断続的なコンテンツを求めるようになった結果、1つの変化を起こした。それは、

 

美しさに、歴史が必要でなくなっていくこと、だった。

 

かつて、美しさには、「歴史やバックグラウンド」が必要であった。人々は、オードリーヘップバーンの美しさに、映画やドラマを通して「物語」を内在させ、強化していた。自分が住む風景に、「歴史」を読み込み、美しさをより感じていた。だが、時代は変わり、時間が細分化されたことで人々は「物語」を消化する時間を持たなくなった。東京では映画を1.4倍速で見るような男も生まれ始めた。

 

つまり、人々がより消費するようになったのは、

 

単なる「美女」

 

になっていった。それは全てがなくなるわけではなかったが、収斂されつつあった。美女は歴史とともに保有されるものではく、限りなくフォトジェニックに消費されるものに近づいていっていった。

 

美女の弱点は、美に潜む「攻撃性」

一方で「美女」にも弱点があった。それは「美に潜む、攻撃性」であった。

 

人は、圧倒的に美しいものを見たとき、憧れつつも、「自分の弱さ」を痛感せざるを得ない。自分は「彼、彼女と比べて、無力すぎる」ため、仮に美女にその意図がなかったとしても、我々は動物としての自分の無力さを感じてしまうのだ。

 

したがって、人は美しいものを求めると同時に、全く攻撃性のない存在を求める。それが一言でいうのであれば、「圧倒的に、かわいいもの」だった。人が赤ん坊を見て、愛情を抱くのは、全くの無防備で、1ミリの攻撃性も兼ね備えていないからである。では、「物語を持たずとも、圧倒的にかわいいもの」、それはなにか?

 

そう、キティ、子猫だ。

 

思えば、人は「可愛いもの」に対する絶対的な執着心がある。幼少期のハローキティスヌーピーに始まり、ジャニーズとAKB、犬と猫、甥っ子とひ孫、ペッパーと孫正義。人間は何歳になっても常に「丸くて、かわいいもの」だけは求め続けているのだ。だが、当然の事実として「かわいいもの」は文化的な背景に強く影響を受けるため、テクノロジーが進化する前は、国境を越えることが難しかった。だが、今やITの進化によって、国境を越えることは簡単になった。

 

つまり、ネコは国境を超え始めたのだ。

 

人々は「思考停止」し、猫と美女だけを見るようになってきた

 

「一体、こいつは何がいいたのか?」

 

あなたはイライラし始めたころだろう。

 

待て待て。このせっかちさん。2つある。1つはコンテンツに関することだ。

 

かつて、月間150億PVのヤフトピを作った、奥村倫弘氏は著書の中で「メディアは猫に支配されていく」という趣旨のことを語った。いわく「猫はPVを稼ぐための最高のコンテンツ」なのである。

 (『ネコがメディアを支配する -ネットニュースに未来はあるのか』)

 

私はこれを読んで「全く同じことを考えている人がいる」と勝手ながらシンパシーを感じた。そして同じように私が13歳の自分に言いたかったのは、

 

Instagramが作り出す世界の先は、「関心の世界」であり、そこは二人の覇者がいる。

 

それは「仔猫」と「美女」だ。

 

もう一つは、もう少し実用的なことである。

 

私は友達には、もはや「ほぼブロガー」だと認識されつつあるが、一応副業は、ITベンチャーで役員として働いている。というか、億単位の提案もしているし、50名近い部下がいるから多分、そっちが本業だと思う。というか、ブログは1円もお金になっていないし、する気がないから、そっちを本業にせざるを得ない。とにかく「ほぼブロガー」と思われている私が、仕事で大事にしているのは、これだ。

 

—   本質的な関心に投資しつづけた、組織が勝つ

 

もう少し平易に言い換えるのであれば、

 

「よし、オフィスに、子猫を置いてみようかな」。そんな気分なのだ。

 

さて今度こそ終わりにしたい。あなたに問いたいのはこうだ

 

オフィスに子猫を置こうとしているITベンチャーの役員

 

果たして、あなたは、どう感じるだろうか?