『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

「嫉妬と恐怖」を、マネジメントする力

 

あなたにとって

 

「21歳の自分に伝えたかったこと」は、なんだろうか?

 

最近聞いた話だが、心に響く文章には法則があるらしい。それは「特定の人」に向けて書かれた文章だ。ここまではよく聞く話だが、この「特定の人」とは実は2パターンあるらしい。1つはその名の通り「特定の誰か」。もう一人が、「過去の自分」。

 

となると、文章というのは面白い。なぜなら、誰にとっても「過去の自分」は存在する。であれば「誰でも心に響く文章を書く素養」があるということだ。

 

では、自分にとって、21歳の自分に伝えたかったことはなんだろうかと考える。それは間違いなく

 

「嫉妬と恐怖」をマネジメントする方法、だったと思う。

 

嫉妬と恐怖の気持ちは、基本的には邪魔だ。一方で、負の力をうまくマネジメントすれば、大きな力にもなる。つまり本質的に伝えたいのは「どうやって負のエネルギーをうまくコントロールするか」だ。

 

「嫉妬と恐怖」が組み合わさった環境を、作ってはいけない

 

どんな人の心にも「小さな悪」はある。心の衛生状態がダメだと、悪の心は育ち、いずれ自分を飲み込むようになる。そして、悪が育つ一番の土壌は「嫉妬と恐怖が揃ったとき」だ。

 

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30歳になり、人生を振り返ると、これまで何度も「ダースベーダーになる機会」があったと思う。例えば「恐怖」。小さい話でいうと、地方出身の人間にとって、東京という町は、そのものが怖い。あるいは、若い頃からドメスティックな家庭に育った人間にとって「海外で生活すること」はもっと怖かった。

 

加えて、キャリアにも「恐怖」は存在した。

 

21歳の頃は、当然のように、1つの企業で働き、一生を終えると思っていたが、現実は大きく違った。企業を飛び出し、何者でもない自分に向き合うことが複数回あった。自分の無力さに向き合う作業、それは「恐怖と向き合うこと」以外の何者でもない。少なくとも、レールに乗ってきた人間にとっては。

 

それでも、人が恐怖を乗り越えてこれたのは「確かなもの」を持っているからだ。ある人にとってそれは、勉強や部活を積み上げてきた実績かもしれない。あるいは、家族や恋人かもしれない。だが、自分にとっての「確かなもの」は他の人とは少し違った。

 

端的にいうならばそれは「思考の歴史」だ。若い頃から、孤独と向き合う、長考の歴史だ。人生とは何か、生きるとは何か、それを問い続ける経験は、必ず「確かなもの」につながっている。21歳のあなたに伝えたい、一つ目のアドバイスは、こうだ。

 

「若い頃から孤独と向き合う、長考の歴史は、あなたの確かなものになる」

 

だから信じて欲しい、と。

 

メディアパワーと、実態のパワーは大きく違う

 

正直、今でも人間に関しては、わからないことが多い。

 

特に「嫉妬」という気持ち。そもそも、嫉妬深い、それは罪深いことなのだろうか。嫉妬心は「他人の足を引っ張る原動力」にもなる。一方で「熱望するもの」があるということだ。あるいは、上を目指している、とも解釈できる。

 

若い頃には、嫉妬を根本的にゼロにすることは、現実的には難しいかもしれない。長い教育過程でできた「比較する癖」を治す、それには、人生をもう一度リセットするレベルでやり直しが必要だ。だが、1つだけアドバイスできるとしたらこれだ。

 

 メディアパワーと、実態のパワーは大きく違う

 

自分自身がメディアを運営するようになり、これは確信に変わった。メディアに出る量と、実力は必ずしも比例しない。世の中には「メディアに出ているけど、本当は、すごくない人」も多く存在するし、その反対も多く存在する。だから、メディアのパワーだけを信じてはいけない。それは実態の伴わない嫉妬だからだ。幻想だ。

 

メディアパワーだけを、信じるべきではない、これが言いたいことだ

 

アウトプットとは、「全体の富を増やす行為」

 

ただ、振りかえってみて、あの頃、気づいていなかったこともある。それはインプットとアウトプットの関係だ。具体的には

 

 インプットするだけでは、絶対に逆転しない

 

ということだ。長期に渡って業界でトップを走り続ける人で、インプットだけしている人を今のところ見たことがない。

 

では、アウトプットとは何か、というと、勘違いされがちだが、アウトプットとは「情報を発信すること」ではない。アウトプットとは「全体の富を増やす行為」だ。仮にあなたが何かを発信しつづけても、それが全体の富を増やさない限り、それは実質的にはインプットだ。この世界の謎を見つけ、解き明かし、世の中を改善すること、それがアウトプットと呼ばれる行為なのだ。

 

「全体の富を増やす行為」、これがあなたに必要なプロセスだ。

 

なぜ人は、アスリートの言葉を求めるのか?—ようやくわかった

 

今になり、分析してみると、嫉妬が発生するには、間違いなく条件がある。それは「遠すぎない、距離感」だ。普通の人が、浅田真央を見ても嫉妬しないのは、あまりに遠すぎるからだ。性別も年代もフィールドも才能も違う。だから嫉妬したくても、できない。

 

一方で、同じ会社の同期や、兄弟はあまりに「近すぎる」。だから自分と比較しやすくなる。そして自分に「確かなもの」がないとき、その気持ちは、悪の方向に進む。これが嫉妬だ。

 

最近思うが、アスリートが社会に必要である理由もこの「距離感」ではないかと思うのだ。スポーツは身近でありつつつも、アスリートという「職業」は、自分とは全く世界が違う。ちょうどよい距離感だ。彼らの言葉であれば、素直に聞くことができる。そして目標に向かって進む姿は、多くの人にエネルギーを与える。

 

何が言いたいか?

 

21歳の自分に伝えたかったことはこれだ。「嫉妬と恐怖」が組み合わさった環境を、決して作ってはいけない。そのために必要なのは3つだ。

 

1、孤独と向き合う、長考の歴史は、あなたの確かなものになる

2、全体の富を増やすという意味で「アウトプット」を行え

3、近すぎないライバルを持て

 

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1/21(日)@東京港

「外コンからなんで人材領域に来たんですか?www」に真面目に答えよう

 

今、「日本の生産性の低さ」が問題になっている。

そして、この問題は往々にして労働時間と紐付けられて語られる。

 

しかし、私は、「何が日本全体の生産性に最も大きな影響を与えるか?」と聞かれたら、間違いなく【人員配置】だと思うのだ。

 

外コンを辞め「人材領域」へきた理由は

 

全ては、【人員配置】の問題に帰着すること

 

それを証明し、自ら正すためだ。 

 

労働時間より、そもそも「どの産業に、何人おくか」の方が、インパクトが圧倒的に大きい

 

【人員配置】を、シンプルに言うなら「どの産業に、何人おくか」ということだ。僕はこれを【アロケーション仮説】と呼んでいる。

 

これを説明するためにまず、そもそも産業には明らかに生産性の偏りがあるということを確認したい。

 

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上の図は、主な産業の「GDP」を「就業者数」で割った数字を出している。上表のように、そもそも一人あたりの生産性は産業ごとに「大きな偏り」がある。例えば、1位の不動産と農林水産業では、最大で26倍もある。そしてこれは単なる、「装置産業」か「サービス産業か」という問題ではなく、例えば、同じサービス業でも「教育」と「宿泊・飲食サービス」は3倍近い差が存在している。このようにそもそも産業には明らかに生産性の偏りがあるのだ。

 

そしてマクロで見た時、日本全体の生産性に影響を与えているのはこの「人員配置(アロケーション)」なのだ。

 

というのも仮に、日本が100人の村で、その産業は「産業A」と「産業B」しかなかったとしよう。そして、産業Aは生産性が高く、産業Bは生産性が低いとしたら、100人の人々のうち何人がAを選び、何人がBを選ぶかによって全体の生産性は劇的に変わるのは明らかだ。

 

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※最大で2倍近くのGDPの差、それに伴う生産性の差が生まれる

 

もちろん、これは因果関係をミスリードしている可能性があるし、経験曲線を無視しているため、完全には事象を説明できない。だが、少なくとも「今後も生産性が低いと分かっている産業に、“新たに”大量の人を投入することは非効率」といえるのは間違いない。

 

一般的に、賢い人ほど物事を複雑に考えようとするが、本質的なものは常にシンプルだ。労働生産性に関するほとんどの問題も、こうやってシンプルに考えると、人員配置(アロケーション)の問題に帰結する。

 

そもそも、「労働時間」を短縮しても、「生産性」はほとんど変わらない

 

冒頭でも触れたが、僕は、「労働時間を短縮」しても生産性はほとんど変わらないと思っている。

 

なぜ、そう言えるのか?

 

これは段階的に確認していこう。まず、自明のこととして「人は働ければ働くほど、出せるバリューが下がる」。これを分かりやすく図に書くとこうなる。

 

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ということは、その人が出せる「バリューの総和」とは、これの合計(積分値)になる。

 

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そして「労働時間を短縮する」というのは、「生産性が落ちる時間をカットする」ということだ。下の図でいうと赤色の部分をカットするということだ。

 

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その意味で、生産性は確かに上がる。だが、その効果は極めて限定的だ。そのことは下の図から確認できる。

 

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もちろん、「無駄な時間をカットすること」自体はとても良いことだ。なぜなら、浮いた時間を人々は、家族や趣味など「他のこと」に使うことができる。「QOL(クオリティオブライフ)」は上がる可能性が高い。

だが、日本全体の生産性という観点に絞っていうのならば労働時間を短縮することで上昇する「生産性」は微々たるものだ。

 

一方で、人員配置は、最大で20倍近い「差」を生み出す。

つまり、

 

労働生産性「労働時間」ではなく「人員配置」の問題なのだ。

 

構造的な問題は「レモン市場であること」。学生が、永久に騙され続ける仕組み。

 

労働生産性に大きな影響を与えるのは、労働時間ではなく人員配置だ。

 

こう聞いて、違和感を覚える人は多いと思が、その理由を分析するなら以下の2つに分けられると思う。

 

1つは、「見えざる手」の話だ。つまり「仮に産業間に差があるとしたら、“見えざる手”が働いて、格差が是正されていくはずだ」ということ。生産性の高い会社は、順当にいえば給料も高く、雇用もたくさん行うはずで、人材もそちらへ流れるため、人材配置は最適化されるのではないかということだ。

 

もう1つは、「感情的なもの」で、「理屈は分かるけど、なんか嫌」ということだ。

 

これは、ちょっとだけ弁解させてほしい。まず1つ目の「見えざる手」についてだが、労働マーケットにおいては、実はこれはあまり機能していない。正確にいうと“極めてゆっくり”しか行われない。というのも、日本の労働マーケットは「レモン市場であるから」だ。レモン市場とは、Wikipediaによると

 

財やサービスの品質が買い手にとって未知であるために、不良品ばかりが出回ってしまう市場のことである、だ。

 

簡単にいうと、「買い手が入手できる情報が少なくて、めっちゃ騙されやすい市場」ということだ。日本の労働マーケット、特に新卒マーケットは、(1)データがないため、買い手となる大企業(人事)が極めて強く、(2)何度もやり直しがきかないため、「求職者の学習が進まない」のだ。

 

つまり「学生が、永久に騙され続ける(可能性のある)市場」なのだ。これが1つ目への答えだ。

 

人員配置をミスると、「誰も幸せにならない」

 

2つ目の「理屈は分かるけど、なんか嫌」に関して話すと、まず、この気持ちはよく分かる。なぜかというと、「人員配置」の問題は、着眼点が個人ではなく国全体だからだ。

そもそも普通の人にとって、仕事は「国のためにやっているわけ」ではない。自分の好きなことをやりたくて選んでいるので、「国の生産性」なんてぶっちゃけどうでもいいのだ。

 

だが、データを見ると、個人だって手放しに「生産性なんて、どうでもいいよね」とも言えないと思うのだ。

 

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内閣府http://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26gaiyou/img/tz_15.gif

 

上の図は、「職場へ満足しているか、どうか」の国際比較だ。これを見ると「仕事が楽しい人の割合」が日本は諸外国に比べて20%近く低いことが分かる。

 

「生産性が低くても、自分の好きなこと」に人々が熱中できているのだとしたら、それは問題ではない。だが、実際の所は「楽しくないし、生産性も低いことをやっている人が多い」のが、悲しいが現実だ。だったらせめて「生産性が高く、給料が多めにもらえる仕事の方がよくないかな?」と僕は思う。というかそもそも、生産性が低い産業は長時間労働が常で、「仕事への満足度が下がる」のは当たり前に想定できる。

 

つまり、繰り返しになるが、全ての労働問題は、人員配置に帰結する、と思うのだ。【アロケーション仮説】

 

僕も「一度、ニートを経験しているから」

 

仕事柄、僕は色んな人と話す機会が多い。そのときに、だいたい決まって聞かれる質問がこうだ。

 

「なんで、人材領域に来たんですか?www」

 

この“www”の部分に、いつも含みがあるように感じる。それは「あなたは、有名な企業にいたのに、なんで新卒領域なんていう、きな臭いマーケットに来ちゃったんですか?」という嘲笑に近い目だ。確かに、人材マーケットは、胡散臭いし、古臭いイメージがある。

 

だが、この質問に真面目に答えると、理由は2つある。1つは、上述のように「全ての問題は、人員配置である」という【アロケーション仮説】という強い自説を持っているからであり、もう1つは「自分も苦労したから」だ。

 

僕は新卒で入った会社を4年弱勤めて辞め、海外をしばらく転々としていた。帰国した自分が直面したのは「日本における、再就職の大変さ」だった。日本の労働マーケットは、聞いていた以上に「一度レールを外れた人」に厳しい。日系企業は、(サントリーという素晴らしい企業を除いて)エントリーシートで落とされまくった。自分の実力のなさもあるだろうが、20代の前半で「レアな経験(事業会社の経営企画・経理財務)」をしていたのにもかかわらず、面接にすら進むことができなかった。

 

そして、これは僕だけの問題ではない。

 

先日、読んだ記事で「高学歴プア」が取り上げられていた。


それは、有名大学を卒業したにもかかわらず、年収200~300万円で生活している人の記事だった。この記事を読んだとき「自分も十分にこうなる可能性があった」と素直に感じた。そして、そうならず、最終的になんとか外資系戦略コンサルに拾ってもらえたのは「たまたま、最初に入った会社の部署が良かったから」の部分が大きいと思った。

 

つまり、僕がこうなっていないのは

「人員配置という、“運”が良かったから」

なのだ。

 

 

だが、将来を担うあなたや私の子どもが同じような運に恵まれるとは限らないし、そもそも僕らは、全員が全員ウォーレンバフェットや大谷翔平になどなれない。そんな中で、「受験勉強を頑張って、良い大学出ても意味ない。一生会社の奴隷」となったらあまりに絶望すぎる。だから僕はそれを正すためこの領域、人材領域に来たのだ。

 

【続編】天才を殺すのは、実は「秀才」ではないか?等への回答10選

 

先週の金曜日、ある記事を書いた。

 

「凡人が天才を殺すことがある理由」

 

yuiga-k.hatenablog.com

 

この記事は、12%の「高いエンゲージメント率」をキープしたまま、大台となるpvを超え、FBシェアだけで5,000を超えた。その過程で、様々な質問や指摘があった。

 

中でも一番嬉しかったのはこれ。

 

 

左ききのエレン」のかっぴーさんのツイート。普段、僕はエゴサーチは1ミリもしない*のですが、この記事は「絶対にバズらせたい。誰か一人で良いので、響いて欲しい」と思って(鬼の形相で)エゴサリツイートしまくった。結果、まさに届いて欲しい人に届いたように感じた。

本当に嬉しかった。クリエイターが命を削りながらモノを作るように、ライターも命を削りながら文章を書くことがある。今回はそれだったからだ。

 

ご協力頂いたみなさんに、感謝しかありません。

エゴサする過程で、とても勉強になるツイートがあった。

 

僕自身も勉強になったので、10の質問だけ、考えたい。勝手に引用したので、もし削除した方がいい方がいれば、すぐ消すのでお教えください。

  

(再掲)天才と秀才と凡人の「軸」

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 Q1:天才を殺すのは、凡人ではなく、意外と「秀才」なのではないか?

 

 

→これは半分、その通りだと感じました。正確にいうと、天才が死ぬには、3つのフェーズがあるのではないか?と思っています。最終的にトドメをさすのは秀才が「ロジック」を凡人にあたえる、そういう構造かと思います。(詳しくは下の図)

 

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 Q2:「共感の神」はどうやったら見つかるのか?

  

 

→これは、ありきたりですが、シンプルに発信することかと思いました。

その際に重要なのは「天才は天才側で、ちょっとだけ、視座をさげること」な気がします。天才も天才側で多少、努力しなければいけないと思います。それをしないで「神様と出会いたい」ってのは、普段、お賽銭していない人が、ピンチになって急に神様を頼る、という構造と同じかと思います。

 

Q3:ちょっと天才を甘やかさすぎではないか?この記事で書かれている、天才は大したことはないのではないか。

  

→重要なのは「幸せの見つけやすさ」だと思います。どんな人の人生にも「理解者」がいた方が、幸せになると思うのですが、天才以外は、数が多いため、同一グループ内で出会う可能性が高い。一方で、天才は絶対数自体が少ない。だから、閾値を超えにくい。よって、僕は「ウェブぐらい、天才を、ちょっとぐらい甘やかしてもいいじゃん。コストゼロじゃん」と思いました。

 

 

Q4:あの考えは、ビジネスや科学の世界では当てはまると感じたが、スポーツの世界では、違うと思うがどうか?

 

→これはなんて素敵なツイートだと思いました。

スポーツはそもそも、同一ルールの中で戦う、どちらかというと秀才のゲームであると思います。ただ、一部のスポーツでは、創造性の余白があるので、そういうスポーツでは天才はいるかと思いました。

 

 

Q5:偶発的に、イノベーションが起きる理由が説明されていないが、どう思うか?

 

→これは鋭く、かつ極めて本質的(=価値のある)な指摘だと感じました。他のは想定していましたが、これは全く想定していない質問でした。この方の知性に感服しました。

今は答えがわからないので、ゆっくり考えていきます。

 

Q6:なぜ、根回し「おじさん」なのか?女性はダメなのか?

 

→「根回しおじさん」というのは、わかりやすいキャッチコピーなので、むしろ、女性の方がおおいのかな?と思いました。ただ、日本では、権力のある男性の方が割合が高いのが現状だと思うので、結果的に「根回しおじさん、お前らの方がもっと頑張れよ!」ということだと思います。

根回しおじさん、僕は人生で3人も、出会ったことがあります。本当に尊敬していますし、出会えたこと自体が、本当に幸運であったと思います。コロボックルみたいなものだと思った方がいいかもしれません。

 

Q7:この理論は、学術、技術的スキルに限らないか?

 

→そうかもしれません。ただ、それ以外の天才はそもそも認識することが難しいので、観測対象としてn数が足りませんでした。

 

 

Q8:天才と秀才と凡人の「定義」がないため、理解できないが。天才と秀才の定義の違いがよく分からない

(参考:いくつかのツイート)

→これはこの質問をしている時点で、この文章のメインターゲットではない、ということだと思います。すみません。

 

Q9:ベン図の中にも入らない、人間がいるのではないか?

(参考:いくつかのツイート)

 

→僕は文書を書くとき、だれかたった一人でもいいので役に立ちたいと思って書いています。一方で、傷つける人の数は出来る限り最小化したいと思っています。メカニズムを解明することで誰かを傷つけるとしたら、そんな知性って価値ありますか?

 ですので、回答としては「そんなことは重々承知ですが、それを書かないことが優しさだと思います」です。

 

Q10:3つの円が重なる人は存在するのか?

(参考:いくつかのツイート)

→いると思います。

 

いずれにせよ、素晴らしいフィードバックを頂き、ありがとうございました。

 

論点:「でもさ。そもそも天才って、社会に必要なのか?」

 

この文章を書いている身として思っていたのは、実は「前提条件」として一番抜けているのは、そもそも、世の中に創造性は必要なのか?ということです。言い換えれば

 

 そもそも「天才」なんて、社会に必要なのか? なぜ必要なのか?

 

ということでした。天才は、確かに正しい方向に社会を進めますが、意図せぬ形で、悪い方向にも進めることもある。となると「創造性」というものは逆にいらない可能性だってあるわけです。つまり「天才なんて不要説」です。

 

ですが、結論をいうと、「それでも僕は必要だと思う」と考えます。なぜかというと2つの理由があります。それは「人口増加による要請」と「経済システムの失敗を調整するため」です。これは説明するのはややこしいので、図に書くと、こういう感じかと思います↓ (分かりにくかったら、スルーしても問題ありません)

 

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でも、これってちょっと、おかしな話です。

 

だって、人口増加というのは、そもそも「科学の発展」によって推進されます。言い換えれば、「天才たちのイノベーション」によって起きる。

 

となると

 

天才たちの功績で→人口が増える→維持コストが増える→バランスを保つために、研究される→イノベーションが起きる→人口が増える

 

という天才→天才への「永久のサイクル」を繰り返しているということ。これ「なんじゃそれ。どっかでピタッと止めろよ」って話なのですが、これは現実的には難しい。なぜなら、「世界は、ベストな状態で止まることができない」からだと思われます。

 

現実世界で「原点ゼロの状態」は、再現されない。

 

先日、よくメディアにも出られている方から、面白い話を聞きました。

 

その方は自分を「バランスを整える人」だと称されていたのですが、世の中は常に「ベストな状態から、少しだけズレる」という話でした。例えるなら、世の中のバランスは振り子のように、どっちかに揺れれば、ぶり返しが起き、原点ゼロの状態にはピタッと止まらない。これ、社会科学の難しさであり、魅力ですね。

 

つまり

 

現実の世界では「原点ゼロの状態」は、再現されない

 

ということです。つまり、天才とそれを支える人たちは「このブレを、整える行為を永久に繰り返しながら、なんとかゼロの状態を目指そうとしている」というわけです。一度動き出したら止まることができない、なんだかマグロみたいな話です。これから「世界はマグロ理論」を唱えたいと思います。(←)

 

まだまだ、世の中には知らないことがありますね。以上、少しでも参考になれば幸いです。 

 

本体の話はこちらから→ 

凡人が、天才を殺すことがある理由。ーどう社会から「天才」を守るか? - 『週報』

 

※ その他、とっても本質的だと感じたツイート(参考)

 

・天才にはエビデンスがない→ほんまそれ

 

・アンチが多い=天才か? →そうそう!

 ・小室さん天才説 →やめる天才のコピーをつけるときの脳内再生が、まさに小室さんでした

 ・天才=リーダー、秀才=マネージャー、凡人=フォロワーなのか?

 ・共感の神=多様性があるひと? →これは優しい視点だと感じました

・知り合いからのツイート。嬉しい

 ・この褒め方こそが、最高にクール。

 

ではまた! 

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