「映画は1.4倍でみます」と言ったら、女の子に死ぬほどドン引きされた話
事件が起きた。あれは多分秋だったと思う。全てはこの一言から始まった。
「俺、映画、1.4倍速で観るんだよね」
隣にいた女の子は、「え?」みたいな驚いた表情を見せた。そしてその2秒後に「は?」みたいな軽蔑するような顔に変わった。なぜなら彼女には「コンテンツ」に対する強い思い入れがあったからだ。具体的には、アーティストの仕事をしていたからだ。彼女は続けた。
「え、ありえないんですけど。」
「ありえない、よね……、でも見ちゃうんだよね」
「……」
「……」
私は倍速で見るメリットを伝えた。例えば、(1)1.4倍速で見れば、120分の映画が僅か85分で観れること、(2)テンポが早くなり、「眠くならない」こと、(3)速聴効果で、もしかしたら「脳にもいいこと」などを語った。
しばらく沈黙が続いた後、彼女はこう続けた。
「……それは、彼女と一緒に居てもですか?」
「うん、たまに」
「……」
「……」
事件だった。いくつかの思惑が交差し、決して交わることのない2つの直線の存在を感じた。「男と女」、「ロジックと感性」、そして今回の最大のテーマである「メディアとアート」。そして私は次のことを確認した。
— 終わった、
だが、すぐさまこれは「サンクコストだ」と認識した私は、自分が取るべき、ネクストアクションを確認した。
うん、きっと、これは、
「書くしかない」
論点:映画は本当に「1.4倍速で見ちゃダメ」なのか?
「映画を1.4倍速で見る男」
そう聞いて、あなたはどう思うだろうか。もしも、あなたがクリエイター系の仕事につく人だったとしたら、100人中98人は「ありえない」と答えるだろう。なぜかって? それはこうだ。
「作り手(クリエイター)への冒涜だから」
わかる。気持ちは。だが、ちょっと待って欲しい。なぜ、映画だけが特別なのだろうか。もしも仮に「受け手は、クリエイターが狙った通りにコンテンツを消費すべき」というのであれば、なぜ映画だけが特別なのだろうか。
例えば「本」はどうだろうか? あなたは、本の飛ばし読みをしたことがないだろうか? 途中で頓挫してしまったことはないだろうか。学校の教科書に落書きしたことは? 教科書だって「作り手」が存在する。一体、何が違うのだろう。
あるいは、もっというと、「美術館」はどうだろうか。美術館には「このルートで観て欲しい」という推奨ルートが存在するが、自分の観たい作品だけ観たことはないだろうか? YouTubeはどうか。あなたは最初から最後までYouTubeを必ず見るだろうか? それだって「作り手への冒涜」に値しないのだろうか。つまり
「映画だけ、特別視する理由はない」と思うのだ。
……。
と、ここまで聞いて、きっとあなたはこう思うだろう。
「この人、マジでめんどくさい人だな」
これはマジで正解だが、こう返したい。それでも映画だけが特別視されているのはおかしい! と。
「映画を1.4倍速で見る男」は、サイコパスなのか?
そもそも、ありとあらゆる物事には、2つのロジックが共存している。そして、全ての社会的事象は、この2つの「交差の仕方」に支配されていると僕は考えている。
・1つは、サプライヤーロジック(供給側の理屈)
・2つは、ユーザーロジック(需要側の理屈)だ
これらは交わることもあるが、交わらないことも多い。極めて卑近な例でいうならば、
「俺は、彼女を好きで、付き合いたい(サプライヤー・ロジック)
しかし、相手はどうでもいいと思っている(ユーザー・ロジック)」
前半である「俺は、彼女と付き合いたい」というのは、供給側(あなた)の理屈であり、「サプライヤーロジック」だ。一方で後半の「相手はどうでもいいと思っている」は、受け手の理屈であり、「ユーザーロジック」だ。どちらが優先されるべきか? もちろん、後者(ユーザー側の理屈)だ。
そして、僕が思っているのは、この2つをちゃんと分離して考えられないやつは大体やばい奴だ。サイコパス気質がある。では「作り手の気持ち」がわからない(っぽい)、僕はサイコパスなのだろうか?
答えは「ノーだ」。
なぜか?
以下の2つをしっかり、理解しているからだ。(多分)
サイコパスが知らない「2つのルール」
1、ユーザーロジックと、サプライヤーロジックが、別であることを理解している
2、ユーザーの理屈が(基本は)優先されるべき、と認識している
逆にいえば、上の2つを理解していない人間は「サイコパス気質」があるから要注意だ。
優秀なマーケターは、自分が「作り手」のときと、「消費するとき」で、立場を入れ替えることができる
そして映画に対して思うのは受け手がコストを払っている限り、優先されるべきは常に「ユーザー側の理屈」だと思うのだ。だが、ここに落とし穴がある。というのも、コンテンツの難しさは、自分が作り手になり得るがゆえに、「視聴するときまで、制作側の気持ちに寄り添いすぎること」だからだ。
そしてこれが、優秀なマーケッターか、単なるサイコパスか、を分けている最大の違いだと思うのだ。
サイコパスか、優秀なマーケターを分ける最大の違い
・優秀なマーケターは、自分が「作り手」のときと、「消費するとき」で、立場を入れ替えることができる
・サイコパスは、常に「作り手」か「消費する側」のどちらかの立場にしか立てない
サイコパスは、往々にして「圧倒的な自信」を持っているため、性的にも魅力的なことが多い。一方で優秀なマーケターも「自分の見せ方」が驚異的にうまいため、魅力的な人物に見えることが多い。したがって、両者はしばしば誤認されることが多く、見極めが難しい。だが、そんな悩みも今日で解決だ。見極めるためには、これを聞けばいいことがわかっただろう。
「あなたは、映画を1.4倍速で見る人をどう思うか」
そのスタンスを問えば一発だ。
ユーザーロジックには唯一の弱点がある
さて、どうでもいい話を本題に戻して
「ユーザーの理屈が、基本、優先されるべき」
と聞いてあなたはどう思うだろうか。これは事実だ。だが、サービスを作っている人であればわかると思うが、ユーザーロジックには唯一の弱点がある。それは
・ユーザーは、未来の「あるべき姿」は、分からない
ということだ。例えば「iPhone」が分かりやすいが、ユーザーインタビューから「iPhone」は生まれない。人間は自分がこれまで見てきたことや、経験したことの延長線上でしか物事を捉えられず、そして、iPhoneは、当時の我々の肉体的感覚の延長線を超えていたからだ。つまり「経験したことがないもの」だったわけだ。
したがって、もしも、映画にサプライヤーロジックが優先されるとしたら、それは「未来の姿」を描いているときのみだ。ここでいう「未来」というのは、SF映画とかそういう意味ではなく、「あるべき人間の未来の全体像」を指している。例えるなら「アートとしての映画」である。
つまり映画を1.4倍速で観ていいか、という問題は、本質的には
映画とは「アート」なのか「コンテンツ」なのか
を実質的に問いかけていたのだ。
ここ10年のメディア論はすべて、メディアは「アートなのか」「コンテンツなのか」の論議だった
そろそろ終わりにしたい。
ここ10年のメディア論議(すなわちDeNAのキュレーション問題や、紙メディアの衰退に対する意見)は、メディアは「コンテンツなのか」「アートなのか」という立場で二分されていたと私は思う。もしも、メディアがすべからくコンテンツであるとすれば、「消費されるかどうか」がすべてであり、DeNAを代表とするキュレーションメディアはやはり最強であった。
一方で、メディアがもしも未来の「あるべき姿」を多少なりとも含むべきもの(=アート)であったとすれば、キュレーションメディアはユーザーロジックの域を超えておらず、「メディア」とは呼べなかったものだと思う。
ジャーナリズムの本質とは、「時間や対価を払ってでも、有益な情報を得ようとする姿勢」
そして、一般的に「キュレーションメディアの是非」は、ジャーナリズム論の文脈で語られることが多いが、私はこれは論点が違うと思っている。ジャーナリズムの本質とは、「時間や対価を払ってでも、有益な情報を得ようとする姿勢」であり、それを失ったのは、メディア側ではなく、むしろユーザー側である。つまりユーザーが「労力を払ってまで有益な情報を得ようとしなくなったこと」こそが、ジャーナリズムを崩壊させえる最大の要因だと思うからだ。
反対にいえば、一部のオールドメディアが語る「新興メディアにはジャーナリズムがない」という一方的な批判は、彼らの単なるサプライヤーロジックを、ユーザー側に押し付けようしている行為だと思うのだ。その意味で「サイコパス的な考え方」とすら言える。
何が言いたいか?
一言でいうと
「映画1.4倍速で見る男」
こんなどうでもいい話が、ここまでの話に展開するとは僕も思わなかった、ということだ。
「映画を1.4倍速で見る人」
あなたは、果たしてどう感じるだろうか?
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