『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

現代は、つくる人に「物理的には」優しいが「精神的に」厳しい

年末年始は、原稿を書き尽くした。机の上は散らかり、コーヒーの香りが部屋にこもった。

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そんななか、気になるツイートをみた。

りょかちは昔一緒に仕事をしたことがある。うちの会社でインターンをしてくれていた。そのりょかちがうるさい。

 

「米津玄師」

普段、Spotifyをたれ流しているだけの僕でも、この名前は知っていた。僕は部屋から出て、紅白を見た。キャンドルと大塚国際美術館の世界観があいまって、圧倒的な迫力を持って見えた。彼の演奏をみた人は

 

天才と呼ばれる理由

 

を感じたのではないだろうか。

 

現代は「作る人」に優しいのか? それとも厳しいのか?

『動画2.0』という本がある。この本はとても面白く、その中で著者・明石ガクト氏はこのような指摘をしている。

スマートフォンの普及によって誰もが動画を作れるようになった。動画の時代がきている」

と。いわく、これまでは大型の設備が必要だった動画作成が今でもはスマホさえあれば誰でも作れるようになったのだと。なるほど、たしかにインスタグラムや、tiktokの大流行には「技術革新で動画が作りやすくなったこと」は確実にありそうだ。

そのとき思った。

 

「現代は、実は、作り手に優しい時代なのではないか?」と

 

コンテンツは「消費する側」と「作る側」には圧倒的な差がある。

映画を観るのが好きな人と、映画を下手でも良いので作る人の間には、100万倍近い差があるなぜかというと「希少性」である。いわずもがな「作る側」の方が希少性が圧倒的に高い。

 

だが、その時代は変わりつつある。たしかに昔は「作ること」は難しかった。
たとえば株式会社は資本金1,000万円が必要であったし、スマホもなければ、ブログもなかった。AWSもなかった。

だが、現代は違う。スマホを買う金さえあれば、誰でも「作り手」に回ることができる。

ぶっちゃけパソコンさえ要らない。たとえば、僕は『転職の思考法』を全て、スマホで書いた。11万部売れた。そしてこの原稿も新幹線の中でスマホで書いている。

 

つまり、我々が、作る側にまわるために必要なのは

スマホ

・充電器

・勇気

でしかないのだ。合わせても10万も行かない。ではこれは何を変えたのだろうか…?

美術館は、代表作ではなく「佳作」をみるべき理由

 

僕は美術館によく行くが、その際、有名な画家の「代表作」ではなく「佳作」にこそ味があると思っている。

誰もが知っている有名な作品(代表作)には当然、凄みがある。一番の楽しみだ。だが、もっと面白いのは佳作のほうだ。代表作には、それができる前に何十もの「佳作」が存在している。このとき、僕は2つの側面を持つ。「コンテンツを消費する側」と「作る側」の視点だ。

具体的には、コンテンツを消費する人にとって大事なのは「代表作」だ。だが、クリエイターにとって重要なのはむしろ「佳作」だ。なぜなら佳作は「模倣し、勉強する過程」を学べるからだ。

 

この差が「天才と凡人の差」を決定的にする。たとえば、前述した米津玄師氏ですらそうだ。


彼は10代の頃から、ニコニコ動画で作品を作り続けてきた。その積み重ねが、いま、圧倒的な才能を開花させたのだ。

 

もうすぐ『天才を殺す凡人』という本が出る。この本のコアのメッセージには、才能にはそれを表現するために「武器」が必要だということだ。

どれだけ才能があったとしても、武器を鍛えるチャンスがなければ、才能は世の中に出ない。そしていま、世の中には山ほど「武器を鍛える場所」が存在している。

 

テクノロジーは常に「使い手の資格」を求める。車は世界最大のテクノロジー約物でもあるが、人殺し道具にもありえる。SNSは天才を殺す武器にも、活かす武器にもなる。今の時代、作り手に回る方が明らかにリターンが大きい。だが、それには勇気がいる。それを乗り越えるための理論をシェアしたい。我々は再度問わないといけない。

 

・いつまでも消費する側でいたいのか? それとも、覚悟を決め、作る側に回るのか?

 

書いた。

  

▼1月18日(金)『天才を殺す凡人』発売(北野唯我、日本経済新聞出版社)

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天才を殺す凡人表紙

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多数決は天才を殺すナイフだ。「共感」は恐ろしい

昔から「多数決」の意味が分からなかった。

なぜなら「たくさんの人がいいと言ってても、間違っていることは山ほどあるのに」と思っていたからだ。

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あれは高校の卒業式だった。僕は、高校の卒業式に出ていない。

理由は

「髪の毛が長くて、ツイストパーマで茶髪だったから」

だ。当時は校則が厳しく、僕の髪の毛はたくさんの点でアウトだった。だからリハーサル前日、担当の数学の先生に呼び出され、こう言われた。

「髪切ってこい。さもないと出さないぞ」

はえ!と言いつつ、こう思った。

「なぜ卒業式に、でないといけないのだろう?」

と。僕は不良だったわけではない。むしろ学祭では前に立つ立場だったし、社会起業家としても活動していた。つまり、意識はとても高かった。不良ではなかった。

だがこう思った。

「なぜ、他の人がやってるから、やらないといけないのだろう?」

と。数学の先生は良い先生だった。とても感謝していた。だから、こう言った。

「だったら出なくて大丈夫です、先生。これまでありがとうございました」

僕は深く頭を下げた。

先生は目を丸くしていた。驚いていた。

そして卒業式は欠席した。

 

ーーー

「多数決は嘘をつく」

これは振り返ると大学受験もそうだった。僕はいろんな理由があり高校を3分の1ぐらい休んでいた。学校に行ってなかったのだ。

朝、学校に行くふりをして家を出て、コンビニでジャンプを買い、公園で時間を潰したあと、父親のふりをして学校に電話を入れていた。シンプルに「学校にいく意味」がなかったからだ。


学ぶ意味がよく分からなかった。なんのために生きるのか、なんのために学ぶのか、が理解できなかったのだ。

でも学校にいくと
「勉強すること」は当たり前のようだった。

当時の僕からみると、周りの同級生たちは思考停止の人間にみえた。「なんのために学ぶのか」を考えずに、「周りの人が勉強するから勉強している」ように見えていた。。だから、学校に行かず、Perlという言語を学び、ひたすらゲームを作ったりしていた。あるいは、ギター片手に曲を作ったりしていた。

 

その方がよっぽど「価値がある」ように見えたからだ。

 

やがて時はたち、31歳になった。今になり二つのことを思う。

一つは「自分が明らかに間違っていたこと」
もう一つは「自分があっていたこと」だ。……?

・間違っていたこと→「世の中で支持されていること」はそれだけでパワーがある

まず一つは、明らかに自分が間違っていたことだ。具体的には多数決には「価値があるときも」ある。
世の中に広く慕われているものには、それはそれで価値がある。だから、僕は部分的に間違っていた。

サピエンス全史が指摘したように、人々が信じているものは往往にして「幻想」だ。だが、その「幻想を信じていること」自体が価値があることがある。数学の先生が言うことは正しかったのだ。

 

しかし、もう一つは16歳の僕が正しかったことだ。具体的には、共感性は「マイノリティ」にとっては意味がない、と言うことだ。

・多数決は天才を殺すナイフだ。「共感」は恐ろしい

普通の人は「共感できるかどうか」によって物事を決める。新著『天才を殺す凡人』で指摘したように、それは多くの人にとっては正しい。

だが、共感はマイノリティにとってはノイズでしかない。共感とは「共通の国籍や、バックグラウンド、思想を持ち合わせた人たち」のためのものだ。その間に入れないマイノリティには価値がないのだ。1つの要素でしかない。

これは仕事でもそうだ。

これまで10年弱、企業のストラテジーに携わる仕事をずっとしてきた。そこで思うことは「共感による意思決定は誤る」ということだ。経営において大事な意思決定は「絶対に共感性だけで決めてはいけない」とすら思う。

 

それは、易きや現状維持にながれるからだ。

 

そもそも「共感できること」とは、過去に起き、すでに皆が感じてきたことの延長線上だ。

その意味で「共感による意思決定の先にあるのは、ただの現状維持」なのだ。それは新しきを作るモノにとっては邪魔になりえる。

天才を殺す凡人という本を書いた。もうすぐ発売される。その事前モニタリングで、素晴らしい感想があった。

(感想より) 20代・女性・IT

私は凡人の側面が圧倒的に多いのですが、「多数決こそ、天才を殺すナイフとなる」と文中にあった時に、小・中・高校と、何かを決めるときに、(机に伏せて挙手をするので匿名性はあるものの)「多数決で決めよ〜」という流れが常習化しすぎていて、「大多数の意見こそ、善」ということがどこかしらで刷り込まれているのも、天才を殺しているのかなと思いました。

社会に出てから、尖っていたり、何かに特化していたり、個性がないと、結局個として、輝けないなとも思えて、「良い人になろう」と思っていた私にとっては、結構衝撃だった。

 

我々は誰もが才能を持っている。それを確かめるための本。ぜひ、皆で読んでディスカッションしてくれる人を求めています。

(続く)

 

 

▼1月18日(金)『天才を殺す凡人』発売(北野唯我、日本経済新聞出版社)

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天才を殺す凡人表紙

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多くの凡人が「天才」ではなく「完璧な後輩」を求める理由

「人は才能を求めながらも天才を殺してしまう」

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悲しい文書を読んだ。

有名税|春名風花|note 

内容は「有名税」の話だ。
冒頭はこう始まる。

有名な人間にはどれだけ悪意をぶつけても良いと思っている人が大勢いる。しかも彼等は咎められると「軽い気持ちで感想を言っただけなのに反応されて傷つきました。あんな人をテレビに出さないで下さい」と匿名でクレーム出来る切り札を持っている。更にその言い分で分が悪くなれば、黙ってアカウントを消して逃げられる。いつだって顔のない人たちは自由だ。

僕は、彼女が天才であるかを、知らない。何者であるかもよくは知らなかった。どうやら原稿を読むと、彼女は小学生のときからTwitterで情報を発信してきたようだ。

目立つ発言をするごとに、僕はトロールの玩具にされていた。発言を切り取って揚げ足を取られ、拡散され、本業の仕事をつぶされ、攻撃的な人から身を守るコストだけが年々膨らんでゆく。

この一文を読んで、僕は猛烈に申し訳ない気持ちになった。

なぜなら、我々大人が「若者の希望を奪う側に回っている」気がしたからだ。

 

大人というのは身勝手なもので、口では

「多様性が大事」
「才能が重要」

と言いながらも、いざ自分の目の前に少しでも気にくわない「才能」がいると、彼らを叩くことがある。しかも、いつでも彼らは「弱者の仮面」をかぶれる

 

「叩かれるのは、才能を持つことの代償である」と切り捨てるのだ。しかし、これは本当だろうか…?

 

多くの凡人が求めるのは「天才」ではなく「完璧な後輩」である

実際、これは半分は正しい。クリエイターであることの条件は「お金を払ってくれる人に対しては、対等である」ということだ。僕の場合、書籍や講演にお金を払ってくれる人の批評は自由だ。

だが、同時にそれはあくまで「作品の内容に関してだけ」であるべきだ。

 

反対にいえば、彼らの「作品の作り方」「生き方」「その人のプライベート」、それらは常に批評の対象外であるべきだ。

では、なぜ、こんな差が生まれるのか?

それはこういう「偽善の大人」が求めているのは「天才」ではないからだ。彼らが求めるのは「完璧な後輩」なのだ。彼らが求めるのは

 

「年上への忖度ができて、適度に自分の助言にも感謝してくれる、抜群で完璧な才能がある後輩」なのだ。

 

クリエイターは「作品」で評価されることを求める。だか、偽善の大人が愛しているものは「作品」ではない。「完璧な後輩」なのだ。
だから、こんな差が生まれてしまう。

だが「完璧な後輩」から素晴らしい作品など生まれるわけがない。むしろ不完全な存在が生み出す作品ほど、素晴らしいものになりえる。だから両者は普通両立しえないのだ。

 

もちろん、世の中には「本物の大人」がいる。僕が「共感の神」と呼ぶ人たちがわかりやすい。 (『天才を殺す凡人』)

彼らは「才能がある人」のことをよく理解している。「鉄の仮面の奥にある繊細さ」を見逃さない。人の心を動かすためには、それ以上に「人の機敏な気持ちも読み取れる」必要がある。それゆえ、壊れやすい面もあることを知っている。

 

「天才は、二度殺される」

私は天才は二度殺される、と思っている。

一度は「精度の低い目利き」によって。凡人からのベクトルだ。もう一つは「誤ったサイエンス」によって。これは秀才からのベクトルだ。

たしかに
「殺されるような天才は天才ではない」
これはある面では正しいだろう。

だが、多くの画家がそうであるように「殺された後でしか認められない天才は山ほどいる」のも事実だ。だから我々は自らに問う必要があるのだ。

・僕たちは「殺された後に認められた天才」を見たいのだろうか?

・天才を殺したあとに彼らを拝めたいのだろうか? と。

きっとそうではないはずだ。

 

これから、日本は人口減少社会に突入する。その中で「才能を理解し、愛する力」は必ず武器になる。

本来、善良な人は、誰かの才能に興奮して、楽しんだことが一度ぐらいあるはずだ。それに何より「自分の才能」がうまく活用せずに「悔しい」と思ったことがあるはずだ。

人生で一度でも「悔しい」と思ったことがある人なら、本当は理解できるはずなのだ。

 

(来週に続く) 

 

▼1月18日(金)『天才を殺す凡人』発売(北野唯我、日本経済新聞出版社)

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天才を殺す凡人表紙

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