現代は、つくる人に「物理的には」優しいが「精神的に」厳しい
年末年始は、原稿を書き尽くした。机の上は散らかり、コーヒーの香りが部屋にこもった。
そんななか、気になるツイートをみた。
は?米津玄師しゃべってるのかっこよすぎてしんだ #NHK紅白
— りょかち@1/25までに残り4kg (@ryokachii) December 31, 2018
りょかちは昔一緒に仕事をしたことがある。うちの会社でインターンをしてくれていた。そのりょかちがうるさい。
— りょかち@1/25までに残り4kg (@ryokachii) December 31, 2018
「米津玄師」
普段、Spotifyをたれ流しているだけの僕でも、この名前は知っていた。僕は部屋から出て、紅白を見た。キャンドルと大塚国際美術館の世界観があいまって、圧倒的な迫力を持って見えた。彼の演奏をみた人は
天才と呼ばれる理由
を感じたのではないだろうか。
現代は「作る人」に優しいのか? それとも厳しいのか?
『動画2.0』という本がある。この本はとても面白く、その中で著者・明石ガクト氏はこのような指摘をしている。
「スマートフォンの普及によって誰もが動画を作れるようになった。動画の時代がきている」
と。いわく、これまでは大型の設備が必要だった動画作成が今でもはスマホさえあれば誰でも作れるようになったのだと。なるほど、たしかにインスタグラムや、tiktokの大流行には「技術革新で動画が作りやすくなったこと」は確実にありそうだ。
そのとき思った。
「現代は、実は、作り手に優しい時代なのではないか?」と。
コンテンツは「消費する側」と「作る側」には圧倒的な差がある。
映画を観るのが好きな人と、映画を下手でも良いので作る人の間には、100万倍近い差がある。なぜかというと「希少性」である。いわずもがな「作る側」の方が希少性が圧倒的に高い。
だが、その時代は変わりつつある。たしかに昔は「作ること」は難しかった。
たとえば株式会社は資本金1,000万円が必要であったし、スマホもなければ、ブログもなかった。AWSもなかった。
だが、現代は違う。スマホを買う金さえあれば、誰でも「作り手」に回ることができる。
ぶっちゃけパソコンさえ要らない。たとえば、僕は『転職の思考法』を全て、スマホで書いた。11万部売れた。そしてこの原稿も新幹線の中でスマホで書いている。
つまり、我々が、作る側にまわるために必要なのは
・スマホ
・充電器
・勇気
でしかないのだ。合わせても10万も行かない。ではこれは何を変えたのだろうか…?
美術館は、代表作ではなく「佳作」をみるべき理由
僕は美術館によく行くが、その際、有名な画家の「代表作」ではなく「佳作」にこそ味があると思っている。
誰もが知っている有名な作品(代表作)には当然、凄みがある。一番の楽しみだ。だが、もっと面白いのは佳作のほうだ。代表作には、それができる前に何十もの「佳作」が存在している。このとき、僕は2つの側面を持つ。「コンテンツを消費する側」と「作る側」の視点だ。
具体的には、コンテンツを消費する人にとって大事なのは「代表作」だ。だが、クリエイターにとって重要なのはむしろ「佳作」だ。なぜなら佳作は「模倣し、勉強する過程」を学べるからだ。
この差が「天才と凡人の差」を決定的にする。たとえば、前述した米津玄師氏ですらそうだ。
彼は10代の頃から、ニコニコ動画で作品を作り続けてきた。その積み重ねが、いま、圧倒的な才能を開花させたのだ。
もうすぐ『天才を殺す凡人』という本が出る。この本のコアのメッセージには、才能にはそれを表現するために「武器」が必要だということだ。
どれだけ才能があったとしても、武器を鍛えるチャンスがなければ、才能は世の中に出ない。そしていま、世の中には山ほど「武器を鍛える場所」が存在している。
テクノロジーは常に「使い手の資格」を求める。車は世界最大のテクノロジー集約物でもあるが、人殺し道具にもありえる。SNSは天才を殺す武器にも、活かす武器にもなる。今の時代、作り手に回る方が明らかにリターンが大きい。だが、それには勇気がいる。それを乗り越えるための理論をシェアしたい。我々は再度問わないといけない。
・いつまでも消費する側でいたいのか? それとも、覚悟を決め、作る側に回るのか?
書いた。
▼1月18日(金)『天才を殺す凡人』発売(北野唯我、日本経済新聞出版社)