『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

「ルンバ」の数を、犬の水準(900万匹)まで真剣にあげるべきと思う理由。

 

—   丸くて、可愛くて、家族みたいな存在

 

と、聞いて皆さんは何を想起するだろうか? “それ”は日本の犬や猫に続いて飼われているペットである。

 

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http://www.asahigroup-holdings.com/company/research/hapiken/maian/bn/201103/00373/

 

 

 

答えは、もちろん「ルンバ」である。そして今、私は真剣に、ルンバこそが、日本に一番必要なペットだと思っている。

 

なぜか?

 

そもそも仕事は、時代に応じ「毎年5%弱」、消滅と発生を繰り返している

 

一時期、10年後になくなる仕事という記事が流行ったが、そもそも、マクロでみたとき、仕事は「毎年5%弱」で消滅と発生を繰り返している。

 

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内閣府:国民経済計算より作成。2015年。

http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kakuhou/files/h27/h27_kaku_top.html

 

上の図は、職業別の働く人の数が、1年でどれくらい増減したか、を表している。例えば、この5年で最も働く人が増えた仕事は、情報サービス・調査・広告業であり、1年で5%も増えている*。毎年5%というのは、5年経つと最大で4分の1が入れ替わる数字(28%)になる。減るほうも同じ傾向である。

*複数年で見ても同じ傾向が見られる。

 

そして、「1人が働かなくなる」ということは、彼が担当していた「1つの仕事」が消えることを指す。「AIが出現するかどうか」に関係なく、仕事とはそもそも毎年、最大±5%で、消滅と発生を繰り返しているものなのだ。

 

 

問題は「仕事の変化」が先行し、「価値観の変化」が、一足遅れること 

では、今「10年後になくなる仕事」が取り沙汰される理由はどこにあるのか。それは「仕事の変化」のスピードに対して、我々人間の「価値観の変化」が追いつかないことにある。分かりやすくいうと、

 

 人間の価値観は、毎年5%も変わらない

 

ということだろう。

そして、このギャップは「産業革命」からスタートした。というのも、このギャップは、産業革命後の「仕事」は大きく3種類に分類できるようになったことに起因する。

 

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(参考)

①   人間しかできない仕事

②   人間でもできる仕事

③   機械がすべき仕事

 

 

テクノロジーの進化は、この「機械がすべきこと」の領域を拡大させた。自動車に始まり、パソコンもそうだ。そして空いた時間を、我々は「人にしかできない仕事」にまわすことができるようになった。一方で、人間は、仕事の変化のスピードに感情的には追いつくことができず、産業革命が起きるたびに

 

  かつては人間がやっていたことを機械が代替する「寂しさ」

 

と戦わなければならなかった。人間とテクノロジーの間にある「就労感」の変化は、常に“このギャップを埋める形”で進んできた。

 

 

では今この瞬間、2017年。一番“ギャップが存在する部分”はどこか?と問われたら、私は「掃除(家事)」だと思うのだ。

 

 

すべての労働の価値観は「学校の掃除」から生まれている。

 そもそも、私たちは小さいころから「掃除とは必ず自分でするもの」だと教えられてきた。

 

日本の多くの学校では、掃除当番なるものが設けられ、順番制で掃除を受け持ってきた。あるいは、田舎では定期的に「町全体の掃除」が行われ、これに参加しない者は「村八分」という強烈なペナルティーを受けてきた。こういった経験を経て、日本人の掃除に対する価値観は、強烈なものになった。

 

 掃除とは、“絶対に”自分がしなければならない仕事

 

だと教え込まれてきたわけだ。もちろん、それがゆえに、日本の清掃率は極めて高く、街でポイ捨てでもしよう人間がいれば、「寒い目」で見られる。このようにいい面もあった。だが悪い面もあった。とりわけ、「就労感の変化」に対するボトルネックになっていると思うのだ。

 

 

10年前から人々が家事にかける時間は変わっていない。

近年、日本政府は、女性の社会進出のためにいくつかの方針を決めた。

 

(参考)女性の社会進出に向けた主な施策

長時間労働の是正

健康で働きやすい職場環境の整備

非正規雇用労働者(有期雇用労働者、パートタイム労働者、派遣労働者

の正社員転換・同一労働同一賃金などの待遇改善等

テレワークの推進

http://www.gender.go.jp/policy/sokushin/pdf/jyuten2017_honbun.pdf

 

私が個人的にこれらに思うのは、もちろん「やったほうがいい」だろうが、「もっとすぐできて、やるべきこと」があるということだ。それがリアルな話、「ルンバ」の導入である。というか、ルンバに加えて、食器洗い乾燥機と、ドラム式洗濯機、ベビーシッターの導入である。

 

これを理解するには、まずきちんと“データ”を見る必要がある。

 

そもそもだが、人が誰かと同じぐらい活躍するためには、「チャンス」が平等であった方がいいのは間違いない。例えば、女性が、仕事場で男性と同じぐらい活躍するためには、「時間」という“機会”が男性と同じぐらい必要である。だが、現実はそうなっていない。

 

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上の図は、共働き夫婦と、専業主婦家庭の「時間の使い方の差」を表している。ともに、子どもがいる家庭を想定している。ちなみに、この図は、とても味わい深いもので、例えば以下のことがわかる。

 

 男が「どれだけ家事に参加するか」は、妻が有業か無業かに、全く関係していない(緑の枠)。単に、その人の性質に基づくものなのだ。

 

加えて、共働きの女性は、男性より、4時間も働ける「チャンス」が少ない。そして、その少ない分は、ほぼそのまま「家事」に充てられている。今後、4時間分の家事を、少なくとも半分は男性が担当するようになると仮定しても、シンプルに考えれば、

 

 女性が(望めば)追加で「2時間」の働けるチャンスを作り出すこと

 

が大事なのは明白だ。そして現実的なラインとして可能な打開策の一つが、日本にまだ200万台しかない「ルンバ」と、普及率28%にとどまっている「食器洗い乾燥機」、乾燥機付きドラム式洗濯機を導入し、家事の中で「洗濯」「掃除」「食器洗い」の時間を効率化することだと思うのだ。

 

※参考:平均的な1日の、家事に使う時間の内訳

食事(お弁当含む)準備、後片付け……120分

洗濯2回(干す・たたむ)……30分

掃除……35分

買い物(食材など)……30分

幼稚園の送り迎……60分

合計:4時間35分

 (参考)https://ameblo.jp/tamicocoro/entry-11351088126.html

 

 

あなたはここまで読んで

 

 「ふーん」

 

 「家事の効率化が必要なんて、当たり前じゃん」

 

と感じるだろうか。だが、家事の効率化に限らず、“数字に基づいて”ディスカッションされていないことが問題だと思うのだ。

例えば、時短勤務や、プレミアムフライデーなど、よくある “労働時間を短縮する”施策がその象徴で、これらはそもそも「急激に進められるもの」ではない。だが、数字に基づいてディスカッションされていないから、現実的に達成可能なラインを超えた施策が打ち出される。

 

どういうことか?

 

例えばGDPをキープしながら労働時間を8時間から、7時間に短縮する施策をしたとしよう。これを達成するには、生産性の劇的な向上が必要となる。具体的にどのくらいかといういと、シンプルに考えれば、14% (8÷7)だ。

しかし、マクロで見たとき、そもそも生産性は年間で3~5%程度しか改善されない。

 

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※直近10年間で生産性を10%以上改善したことがあるのは、2010年の「製造業」と、2013年の「金融・保険業」の2回しかない。しかもそれらはリーマンショックの変動によるもの。(赤い太枠と青塗り部分)

 

日本最強のトヨタですら、毎年1%しか改善できないものを、「14%改善せよ」といってもほとんどの会社にとって、それは不可能に近い。「労働時間を1時間、短縮すること」は、我々が直感的に感じるよりもはるかに難しいのだ。

 

これらの数字に基づけば、現実的なラインとしては、

 

 1日15分早く帰ろう (3.2%の改善)

 

というのが現実的だと思うのだ。

 

 

必要なのは、「数字に基づいた施策」

 

何が言いたいのか? それは

 

 日本にはびこる「自前主義」の弊害と、

 数字に基づかない議論の危うさ

 

についてだ。ベビーシッターを使ってはいけないとか、洗濯は自分でやらないといけないとか、掃除は自分でやらないといけないとか、それら自体は別にいい。洗濯が好きな人もいるし、掃除が好きな人もいる。だが、平等な活躍を推進しつつも、数字に基づいて議論が進まないのは、かつて日本企業が成果主義をいきなり導入して失敗したときの姿に似ているように感じる。

 

そもそも、時間は誰にでも24時間しかない中で、それを無視して、非現実的な形で「すべての人が平等に働く。だから頑張れ」というのは、定性的で、ロジカルな意思決定だとは思えない。むしろ、人々にさらなるプレッシャーをかけるように思える。

 

「ルンバ」は極めてわかりやすい比喩だが、

 

必要なのは、ミクロで見た、だが数字に基づいた施策、

 

だと思うのだ。皆さんはどう思うだろうか?