『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

もうすぐ「30歳」ですが、20代前半より今の方が遥かに楽しいよ。

俺は彼女の方をまっすぐ見つめながら、こう聞いた。

 

「もうすぐ30歳になる前、どんなこと考えてた?」

 

そう、俺は今29歳だ。もうすぐ「30歳になること」に気づいたその日から、俺はいろんな人に「30歳を楽しむためのコツ」をヒアリングをしていた。彼女は答えた。

 

「絶望的な気分だった」

「えっ……なぜ?」

「女は28歳までだから、って何度も聞いてきたから」

 

あぁ、これか、と俺は思った。そして、その後の「30代になると、いかにつまらなくなるか」という話の展開を予測したが、彼女は間髪入れずこう語った。

 

「でも、実際なってみると、全然違った」

「違う?」

「30代の方が遥かに楽しい」

 

いわく、彼女は30代の方が、仕事も恋愛も遥かに楽しいと語るのだ。俺は、それを満面の笑みで語る彼女の姿を見ながら、だから俺はこの女が好きなのだと痛感した。そして2つのことを考えた。1つは「一体、こうやって自信をもって語れる女性が日本に何人ぐらいいるのだろうか?」ということ。“少ない”という直感とともに、反対に、東京カレンダーのようなしょうもないコンテンツに隠されているが、「意外と沢山いるのではないか」とも思った。

 

2つ目は、もっと根源的なものだった、それは

 

「年を取ること」は、一体どうあるべきなのか?

 

ということだった。30歳を目前に、俺は「年を取ること」、そのものの“あるべき姿”を考えるようになった。

 

就労感を犠牲にし、大人になる - それが日本?

 

多くの人にとっての“父親像”と同様に、俺にとって父は憧れの存在だった。今でも覚えているが、小学2年の夏、父が勤める会社の同僚たちが行う草野球を観に行くことがあった。もともと運動神経抜群の父は、4番でピッチャー。父が大きな野原に特大のホームランを打ち、ベースを駆け抜ける姿を見て、俺は心を躍らせた。

 

「この人は何でもできる人だ!」と。

 

だが、いつ頃だっただろうか。

 

家に帰った父が少しずつ、会社の愚痴を言うようになり、仕事の話で笑わなくなった。中学生になった俺はそれなりに幼かったが、それを「ダサい」と一言で語るほどには、未熟ではなかった。家族の財政を支えてくれていることは十分に感じていたのだ。

 

ただ、そんな彼の背中を見て俺は一つの事実を心に刻み込んだ。

 

「仕事とは、辛くて、大変なものなんだ」と。

 

そして、俺は“スーパーマンではない父”を受け入れ、それでも愛する努力をするようになった。父と俺は、就労感を犠牲にし、大人になったのだ。だが今になって思う。

 

 “大人になる”とは、就労感を犠牲にすることと同義だったのだろうか?と。

 

経済はこれ以上「豊かになるべき」なのか、俺にはわからない。

 

「年を取るとは、“どうあるべき”なのか?」

 

時は経ち、29歳になった俺は、仕事で日本有数ITベンチャーの社員に取材を行うことがあった。インタビューの中で、ある人がこういった。

 

 日本が今抱える問題は、すべて、“厚労省”が抱えている

 

つまり、彼の言外に含むのは、“経済産業省ではない”ということだ。俺はなるほどな、と思った。というのも、ほとんどの経済施策は、“経済的に豊かになること”を目的においている。だが、「日本は、これ以上、本当に豊かになるべきなのか?」と聞かれたら、自信をもってイエスとは俺は言えない。その時、日本が抱える課題が明確に見えた。それは

 

 “若さ”と、“年を取ること”に対する、考え方が、成熟していないこと

 

だ。多くの国には宗教が存在し、宗教の多くは「年を取ること」に対する指針が明確に存在する。だが無宗教が大多数であり、年功序列システムで生きてきた私たちは、「年を取ることに対する、スタンスがない」のだ。我々は社会人や恋人である前に、歳をとる”考える生物”であるにも関わらず、だ。

 

結果的に、若いということは、単なる“生物的な若々しさ”でしか評価されず、“年を取ることは単に、生物的に衰え、社会人として生きること”で評価されるしかないのだ。それがすべての課題ではないかと感じるようになったわけだ。

 

さてそろそろ終わりにしたい。

 

 30歳の前夜、あなたは、なにを考えていたのだろうか?

 

 あるいは、いずれ訪れるその日に、何を感じていたいのだろうか。

 

意味不明な大人の言葉に惑わされないでほしい。30代の方が遥かに楽しいと語る女性は山ほどいるし、仕事はもっと楽しくなる。ただ、それだけだ。

 

「ルンバ」の数を、犬の水準(900万匹)まで真剣にあげるべきと思う理由。

 

—   丸くて、可愛くて、家族みたいな存在

 

と、聞いて皆さんは何を想起するだろうか? “それ”は日本の犬や猫に続いて飼われているペットである。

 

f:id:yuiga-k:20170807132320p:plain

http://www.asahigroup-holdings.com/company/research/hapiken/maian/bn/201103/00373/

 

 

 

答えは、もちろん「ルンバ」である。そして今、私は真剣に、ルンバこそが、日本に一番必要なペットだと思っている。

 

なぜか?

 

そもそも仕事は、時代に応じ「毎年5%弱」、消滅と発生を繰り返している

 

一時期、10年後になくなる仕事という記事が流行ったが、そもそも、マクロでみたとき、仕事は「毎年5%弱」で消滅と発生を繰り返している。

 

f:id:yuiga-k:20170807134501p:plain

内閣府:国民経済計算より作成。2015年。

http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kakuhou/files/h27/h27_kaku_top.html

 

上の図は、職業別の働く人の数が、1年でどれくらい増減したか、を表している。例えば、この5年で最も働く人が増えた仕事は、情報サービス・調査・広告業であり、1年で5%も増えている*。毎年5%というのは、5年経つと最大で4分の1が入れ替わる数字(28%)になる。減るほうも同じ傾向である。

*複数年で見ても同じ傾向が見られる。

 

そして、「1人が働かなくなる」ということは、彼が担当していた「1つの仕事」が消えることを指す。「AIが出現するかどうか」に関係なく、仕事とはそもそも毎年、最大±5%で、消滅と発生を繰り返しているものなのだ。

 

 

問題は「仕事の変化」が先行し、「価値観の変化」が、一足遅れること 

では、今「10年後になくなる仕事」が取り沙汰される理由はどこにあるのか。それは「仕事の変化」のスピードに対して、我々人間の「価値観の変化」が追いつかないことにある。分かりやすくいうと、

 

 人間の価値観は、毎年5%も変わらない

 

ということだろう。

そして、このギャップは「産業革命」からスタートした。というのも、このギャップは、産業革命後の「仕事」は大きく3種類に分類できるようになったことに起因する。

 

f:id:yuiga-k:20170807133424p:plain

 

(参考)

①   人間しかできない仕事

②   人間でもできる仕事

③   機械がすべき仕事

 

 

テクノロジーの進化は、この「機械がすべきこと」の領域を拡大させた。自動車に始まり、パソコンもそうだ。そして空いた時間を、我々は「人にしかできない仕事」にまわすことができるようになった。一方で、人間は、仕事の変化のスピードに感情的には追いつくことができず、産業革命が起きるたびに

 

  かつては人間がやっていたことを機械が代替する「寂しさ」

 

と戦わなければならなかった。人間とテクノロジーの間にある「就労感」の変化は、常に“このギャップを埋める形”で進んできた。

 

 

では今この瞬間、2017年。一番“ギャップが存在する部分”はどこか?と問われたら、私は「掃除(家事)」だと思うのだ。

 

 

すべての労働の価値観は「学校の掃除」から生まれている。

 そもそも、私たちは小さいころから「掃除とは必ず自分でするもの」だと教えられてきた。

 

日本の多くの学校では、掃除当番なるものが設けられ、順番制で掃除を受け持ってきた。あるいは、田舎では定期的に「町全体の掃除」が行われ、これに参加しない者は「村八分」という強烈なペナルティーを受けてきた。こういった経験を経て、日本人の掃除に対する価値観は、強烈なものになった。

 

 掃除とは、“絶対に”自分がしなければならない仕事

 

だと教え込まれてきたわけだ。もちろん、それがゆえに、日本の清掃率は極めて高く、街でポイ捨てでもしよう人間がいれば、「寒い目」で見られる。このようにいい面もあった。だが悪い面もあった。とりわけ、「就労感の変化」に対するボトルネックになっていると思うのだ。

 

 

10年前から人々が家事にかける時間は変わっていない。

近年、日本政府は、女性の社会進出のためにいくつかの方針を決めた。

 

(参考)女性の社会進出に向けた主な施策

長時間労働の是正

健康で働きやすい職場環境の整備

非正規雇用労働者(有期雇用労働者、パートタイム労働者、派遣労働者

の正社員転換・同一労働同一賃金などの待遇改善等

テレワークの推進

http://www.gender.go.jp/policy/sokushin/pdf/jyuten2017_honbun.pdf

 

私が個人的にこれらに思うのは、もちろん「やったほうがいい」だろうが、「もっとすぐできて、やるべきこと」があるということだ。それがリアルな話、「ルンバ」の導入である。というか、ルンバに加えて、食器洗い乾燥機と、ドラム式洗濯機、ベビーシッターの導入である。

 

これを理解するには、まずきちんと“データ”を見る必要がある。

 

そもそもだが、人が誰かと同じぐらい活躍するためには、「チャンス」が平等であった方がいいのは間違いない。例えば、女性が、仕事場で男性と同じぐらい活躍するためには、「時間」という“機会”が男性と同じぐらい必要である。だが、現実はそうなっていない。

 

f:id:yuiga-k:20170807133650p:plain

 

上の図は、共働き夫婦と、専業主婦家庭の「時間の使い方の差」を表している。ともに、子どもがいる家庭を想定している。ちなみに、この図は、とても味わい深いもので、例えば以下のことがわかる。

 

 男が「どれだけ家事に参加するか」は、妻が有業か無業かに、全く関係していない(緑の枠)。単に、その人の性質に基づくものなのだ。

 

加えて、共働きの女性は、男性より、4時間も働ける「チャンス」が少ない。そして、その少ない分は、ほぼそのまま「家事」に充てられている。今後、4時間分の家事を、少なくとも半分は男性が担当するようになると仮定しても、シンプルに考えれば、

 

 女性が(望めば)追加で「2時間」の働けるチャンスを作り出すこと

 

が大事なのは明白だ。そして現実的なラインとして可能な打開策の一つが、日本にまだ200万台しかない「ルンバ」と、普及率28%にとどまっている「食器洗い乾燥機」、乾燥機付きドラム式洗濯機を導入し、家事の中で「洗濯」「掃除」「食器洗い」の時間を効率化することだと思うのだ。

 

※参考:平均的な1日の、家事に使う時間の内訳

食事(お弁当含む)準備、後片付け……120分

洗濯2回(干す・たたむ)……30分

掃除……35分

買い物(食材など)……30分

幼稚園の送り迎……60分

合計:4時間35分

 (参考)https://ameblo.jp/tamicocoro/entry-11351088126.html

 

 

あなたはここまで読んで

 

 「ふーん」

 

 「家事の効率化が必要なんて、当たり前じゃん」

 

と感じるだろうか。だが、家事の効率化に限らず、“数字に基づいて”ディスカッションされていないことが問題だと思うのだ。

例えば、時短勤務や、プレミアムフライデーなど、よくある “労働時間を短縮する”施策がその象徴で、これらはそもそも「急激に進められるもの」ではない。だが、数字に基づいてディスカッションされていないから、現実的に達成可能なラインを超えた施策が打ち出される。

 

どういうことか?

 

例えばGDPをキープしながら労働時間を8時間から、7時間に短縮する施策をしたとしよう。これを達成するには、生産性の劇的な向上が必要となる。具体的にどのくらいかといういと、シンプルに考えれば、14% (8÷7)だ。

しかし、マクロで見たとき、そもそも生産性は年間で3~5%程度しか改善されない。

 

f:id:yuiga-k:20170807134030p:plain

 

※直近10年間で生産性を10%以上改善したことがあるのは、2010年の「製造業」と、2013年の「金融・保険業」の2回しかない。しかもそれらはリーマンショックの変動によるもの。(赤い太枠と青塗り部分)

 

日本最強のトヨタですら、毎年1%しか改善できないものを、「14%改善せよ」といってもほとんどの会社にとって、それは不可能に近い。「労働時間を1時間、短縮すること」は、我々が直感的に感じるよりもはるかに難しいのだ。

 

これらの数字に基づけば、現実的なラインとしては、

 

 1日15分早く帰ろう (3.2%の改善)

 

というのが現実的だと思うのだ。

 

 

必要なのは、「数字に基づいた施策」

 

何が言いたいのか? それは

 

 日本にはびこる「自前主義」の弊害と、

 数字に基づかない議論の危うさ

 

についてだ。ベビーシッターを使ってはいけないとか、洗濯は自分でやらないといけないとか、掃除は自分でやらないといけないとか、それら自体は別にいい。洗濯が好きな人もいるし、掃除が好きな人もいる。だが、平等な活躍を推進しつつも、数字に基づいて議論が進まないのは、かつて日本企業が成果主義をいきなり導入して失敗したときの姿に似ているように感じる。

 

そもそも、時間は誰にでも24時間しかない中で、それを無視して、非現実的な形で「すべての人が平等に働く。だから頑張れ」というのは、定性的で、ロジカルな意思決定だとは思えない。むしろ、人々にさらなるプレッシャーをかけるように思える。

 

「ルンバ」は極めてわかりやすい比喩だが、

 

必要なのは、ミクロで見た、だが数字に基づいた施策、

 

だと思うのだ。皆さんはどう思うだろうか?

 

 

 

「年俸1億サラリーマン」を観光業に生めるかが日本経済の行く末を決める理由を話します

 

 

私は、よくこう考えます。

 

—   もしも、「すべての努力が報われない」としても、それでも人々は頑張り続けることができるだろうか? と。

 

私たち日本人は、小さい頃から常にこうやって教わってきました。

 

努力は報われると。

 

しかし、ことビジネスの世界においては、必ずしも努力は報われるわけではない。例えば、あなたの給料の期待値は「一番、最初にどの産業を選ぶのか?」によって実はほとんど決まっている。そして人は「努力が報われない」と気付いた瞬間に、無力な人間に変わる。これもまた事実だと思うのです。

 

給料が1,000万円以上になれる確率は、産業によって、最大20倍近く違う

 

私がそう語る理由は、シンプルなデータから始まる。

 

 

f:id:yuiga-k:20170725142856p:plain

 

上の図は産業間における給料のばらつきを表している。例えば、年収1,000万円以上もらっている人の割合は、金融・保険業界では16%だが、宿泊・飲食サービス業はわずか0.8%しかない。簡易化して言えば、1,000万円以上給料もらえる確率は、産業間で最大20倍近く違うのだ。

 

ではこのばらつきは、何によって規定されるのかというと、それは産業別の「一人当たりのGDP(労働生産性)」によって大きく規定されている。

 

f:id:yuiga-k:20170725143139p:plain

 

 

上の図は、「一人当たりのGDP」と「年収1,000万円以上の人の割合」をプロットしている。(異常値である不動産を除くと)明らかに相関していることがわかる。わかりやすく言うと「業界の生産性が高いと、給料も高い」ということだ。給料の原資は、収益から出されるため、当たり前の話だ。

 

問題は「マクロで見たとき」にある。

 

f:id:yuiga-k:20170725143649p:plain

 

 

上の図は、毎年の「入職者数」を表している。入職者とは「新しく働き始めた人の数」を指す。

 

問題は、赤く囲った部分であり、これは「労働生産性の低い3つの産業」をくくっている。この表を見れば、毎年100万人*に近い人々(94万)が最も生産性が低い3つの産業に流れ込んでいることがわかる。100万人というのは、毎年、新たに働き始める人口*の35%に値する。そして生産性は、産業によって、最大で26倍の差があるため、そもそもこの状態で日本全体の「生産性」は、上がる可能性はほぼないのだ。

 

* 入職者数のうち、転職入職者数を除いた値

 

この状況を例えるのであれば、毎年100万人の若い兵隊が、死の「戦場」に進んでいくことを、僕らは見逃しているようなものだ。

 

おそらくあなたはこう思うかもしれない。

 

「ふーん」

 

だが、これを個人の視点に変えてみると話の印象は少し変わる。

 

このロジックが正しければ、人が、どれだけ頑張ったとしてもそもそも選ぶ産業を間違った時点で、給料の上限は、ほぼ決定付けられる。そして、多くの統計で示されたように、人は仕事選びで重要視する項目には必ず、「給料」や「昇級の可能性」が入る。100万人に近い若者の実態は、毎年、未来に希望を持ちながらも、歳をとり初めて「自分が豊かになる可能性がない」ことを気づくのだ。

 

だから僕は少しでも変えたいと思って、HRマーケットのフィールドにいる。

 

最も生産性の低い「宿泊業・飲食サービス業」を軸とした、観光業は成長のポテンシャルがある

 

では、どこに希望を見出せばいいのか?

 

答えの1つは、雇用数が多く、かつ、「生産性」に改善のポテンシャルがある業界にある。

 

そもそも、その産業の生産性に、改善のポテンシャルがあるかどうかは、「どれだけレバレッジをかけられるか」という産業のルールによって規定されている。例えば、金融に代表とされる産業はレバレッジがかけられるため、1時間当たりの利益の上限が実質的に存在しない。だから「金持ちのサラリーマン」が多く存在できる。

 

そして改善する余地がある産業の1つは、日本の観光業だと私は思う。観光業は本来的には「生産性に上限がほぼない」からだ。(観光業のポテンシャルは、デービッド・アトキンソンがその著書でも指摘している)

 

例えば世界で最も来訪者が多い観光地の1つである、ナイアガラの滝は年間で2,200万人*の人が訪れ、なんと6億ドル(670億円)*もの経済効果を生み出す。そして、それにかかるコストは維持費や人件費といった僅かな金額である。粗利率は、上限近いレベルの数字になると推測される。

 

http://www.huffingtonpost.com/2014/02/26/most-visited-attractions_n_4858066.html

https://www.niagarafallsusa.com/about-us/tourism-impact/

 

一方で、ほとんどの観光地は、キャッシュを生み出さない事は説明するまでもないだろう。

 

つまり、本来、観光業のルールとは、「就業者1人あたりの生産性に、天井と底が存在しない*」産業なのである。それがこのビジネスのルールであり、それが故に、レバレッジが最大限にかかると、観光業1本で、国の経済が存在することができるレベルになるわけだ。

 

*厳密にいうと、底(0)はある。

 

では、そんな観光業が発展する上でボトルネックになるものはなにか?

 

それは「給料システムが古いこと」だと私は思う。

 

観光業は「生産性に上限がない」ため、理論上は給料も青天井であるべき

 

本来であれば、観光業は、利益を出せば出すほど、その人に給料が還元されると言うシステムを作りやすい。稼いだ人と、稼がない人の差(給料のボラティリティー)が大きくなる仕組みだ。だが実態は、観光業を中心した産業は給料のばらつきが少なく、期待値も低い。

 

もちろん、観光庁もこの現場に疑問を持ち、「MBA人物の育成」などを唱えている。だがこれは今の給料の実態を鑑みると、完全に「絵に描いた餅」だと言わざるを得ない。

 

f:id:yuiga-k:20170726102325p:plain

 

私が言いたいことの1つ目は、観光業がまずやるべき事は、その古い給料形態を破壊し、優秀な人材に対して高いフィーを払うための人事制度システムの構築だということだ。

 

わかりやすいアナロジーでいうと、今日本に必要なのは

 

—   観光業に勤める「年収1億円のビジネスパーソン

これだと思うのだ。

 

日本の「給料システム」の2つの欠点

 

さて、そろそろ終わりにしたい。

 

今の日本社会には給料に関する2つの問題がある。1つは、「メジャーリーグ問題」と私が呼ぶものだ。

 

今の日本は、飛び抜けた人材が外資系企業に行かざるを得ない構造がある。一般的に外資系企業の方が伝統的な日系企業よりも給料のボラティリティ(ばらつき)が大きい。したがって企業内において異常値をたたき出す人材は、その評価を適切に求めるために外資系企業に行かざるを得ない。プロ野球で飛び抜けた人材がメジャーにいくのと、全く同じ構造だ。

 

アマゾンを代表とした有力外資企業が本当にシェアを伸ばしているのは、優秀な人材と言うその国家の源泉力の割合だ。これが1つ目の「メジャーリーグ問題」だ。

 

2つ目の問題は、産業の内部で、優秀な人材が育たないことにある。

 

想像してみてほしい。あなたは今2つのジョブオファーをもらっている。

 

1つは、古くて官僚的な会社で、給料が1,000万円以上になる可能性はほぼ0%である。一方でもう一つの会社(プライベートエクイティなど)は、数十倍近い給料をもらえる可能性が高い。加えて、自分たちが動かせる金額も、スピードも桁が違う。あなたがもし優秀なビジネスパーソンだとしたら、本当に前者を選ぶだろうか?

 

この状態で優秀な人材を内製化することは極めて難しい。結果、産業外から人を招聘せざるを得ない。2つ目の問題は「人材の内製化」が難しいということだ。

 

オールドエコノミーに優秀な人材を引きつけるには、根性論より「ボラティリティが適した人事システム」

 

私は何も金が全てだ、というつもりは全くない。むしろ自分自身は大企業を2度辞めていることもあり、どちらかというとロマンを追う人間だ。だが、ビジネスロジックの世界の中で、自分が「極めて少数派の人間」であることも自覚している。私が言いたいのはシンプルな話だ。

 

適切な価値を出した人が、適切に評価される、

その世界のほうが健全だと思わないだろうか?

そのために産業単位で給料のボラティリティを設計しなおす必要がある。

  

 
ーー北野唯我(KEN)Twitter はこちら ※最新の採用マーケット情報を配信中