『週報』北野唯我のブログ

北野唯我のブログ、プロフィール、経歴など。人材領域をサイエンティフィックに、金融市場のように捉える為の思考実験の場。

「おっす、オラ、ダーウィン!」ジョジョとH✕Hに見るヒーロー進化論

 

 

少年は考えていた。強さとはなにか。元々喘息持ちに生まれた彼にとって「強さの定義」は死活問題であった。医療の進化により生命は進化のプロセスを大きく変えたが、それは単なる「生存確率の変化」ではなかった。これまでは生きたくても生きることができなかった生物、生命体が世界に飛び放たれることで人類の多様性は飛躍的に向上した。肉体的な強さはかつてほど意味を持たなくなっていき、われわれはもはや肉を食うために殺しあう必要はなくなった。むしろトングを握り肉を分かち合うことさえできるようになった。

 

すなわち、人類は否が応でも「強さとは何か」を考えざるを得ないフェーズにあった− 少なくとも彼はそう感じていた。

 

彼自身は、そもそも、人類の「強さ」に対する価値観が変わったのは、これまで3度あったと思っていた。一度はダーウィンの進化論。ダーウィンは個体として強い生物ではなく、変化に対応できる生物だけが生き残れると語った。生き残るという意味で「強さ」の価値観を変えた。

 

2つは医療と福祉の登場だった。社会福祉の制度が生まれることで、人々はそれまで単体では食料にありつくことが難しかった生命体に肉を与えるようになった。結果として人類は多様性を広げる大きなチャンスを得た。

 

 

そんな彼はダーウィンに対して尊敬の念を抱いていたが、しかし一方で彼が強さを語る上で1つだけ足りないものがあった、それは一般的にはこう呼ばれていた。

 

 ヒーロー (英雄)

 

彼にとって“進化論”は確かに素晴らしい理論であった。だがそれは「世代間を越える強さ」について言及したものであって、個体としての強さについて語るものではなかった。つまり、彼には自分が憧れられるような「等身大の強さ」が必要だったのだ。言い換えれば「ヒーロー」だった。

 

そんな、ある日、彼の目の前にメシアとなる男が現れた。

 

その名は、空条承太郎、「ジョジョの奇妙な冒険」の主人公である。彼にとって「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくるキャラクター達はまさにヒーローであった。

 

なぜか?

 

なぜなら

 

—   「ジョジョ」の登場は、それまで「ドラゴンボール」が支配していた“強さ”
その概念を決定的に変えたから、である。

 

どういうことか?

 

ドラゴンボール以前」と「ジョジョ以後」の世界で「強さ」に関する概念は全くかわった

さて私は、格闘系の漫画は2つの世界に分けられると思っている。

 

ドラゴンボール以前の世界

ジョジョ以後の世界

 

である。そしてそれは「強さに対する捉え方」によって二分されている。

 

まず、ドラゴンボールは「強さ」が単一的な指標で計られる。スカウターによって、戦闘能力は計られることができるし、天下一武道会は、「画一的なルールのもとで、一番強いやつを決める世界」だ。だが、このドラゴンボール的世界には決定的な致命傷がある。それは

 

 強さがインフレを起こすこと

 

である。ストーリーが進めば進むほど、強さは限りなく高くなっていかざるをえない。そして終盤になると、もはや全てのキャラが活躍するチャンスを与えることは不可能になる。一方でジョジョの世界は違う。

 

ジョジョのキャラクターのほとんどは「特定の条件下での強さ」である。各キャラクターは「自分の能力が一番活躍する条件」を知っている。反対にいえば「どういう状況であれば、自分が弱いか」を知っている。したがって、キャラクターは自分の頭を使って、なんとしてでも勝てる状況を作り出す。全てのキャラクターが後半になっても「活躍するチャンス」を持つことができるわけだ。言い換えれば、インフレが起きない。

 

そして、これは「漫画の世界」ではなく、実世界においても同じことが言える。

 

世代間を越える強さは「多様性」からしか生まれないことを、ダーウィンが示した

 

ダーウィンは、世代を超えて生き続ける生物は「変化に対応できるもの」だと語った。例えば、キリンという生物が生き残り続けられたのは「首が長いキリン」もいれば「首が短いキリン」もおり、首が長いキリンは高いところの食料にありつける可能性が高かったということだ。だが、これは彼の理論の一側面でしかない。彼の理論の別の意味は「世代間を越える強さは、多様性からしか生まれない」ということだ。裏を返せば、

 

—   個体差を持った生命体のみが、世代を超えていける

ということだと私は解釈している。

 

だが、ここまで聞いておかしいと思わないだろうか? ここまでの解釈が正しいとすれば、人間という生き物が生き残れてきたのは「多様性があったから」であり、人間はすべからく「多様性を持ち、それを愛する性質」があってもおかしくない。だが現実世界では人は「多様性を排除しようとする」傾向にもある。

 

ということは真の問題は別にある。それは、

 

 「何が、組織体の多様性を殺すのか?」

 

である。

 

多様性を殺すのは「制約なき強さ」である

 

結論からいうと、多様性を殺すものは

 

「制約なき強さ」

 

だと私は思うようになった。ドラゴンボールの世界では、強さは絶対的であり、ハッキリ言って「孫悟空」以外は不要である。ヤムチャクリリンに活躍の場は残念だけど、ない。

 

一方で、絶対的な強さが存在しない、ジョジョの世界には「どんな人でも活躍できる場」がある。では一体、何が両者の違いなのかというと、それは

 

「強さに、対価が必要であるか、どうか」

 

である。例えば「鋼の錬金術」と「ハンターハンター」が分かりやすいが、その世界では、強さは常に“対価”を必要している。ハンターハンターに出てくるキャラクター達は、念能力という“特殊能力”を使って戦うが、その強い特殊能力を持つためには「なんらかの犠牲」「対価」が必要なのである。したがってどんなキャラクターでも永久に活躍する場を持ち続けられる。状況さえ整えれば、彼らに勝つことができるからだ。つまり私はある時から

 

 多様性を殺すのは「制約なき強さ」ではないか

 

と思うようになったのだ。

 

資本主義の世界は、”いくらでも儲け続けられる”という意味で「制約なき強さ」を認めるゲーム

 

そして、これは現代の世界においても全く同じだと私は感じる。資本主義の世界は、いわずもがな「富めるものが、さらに富む」世界であり、トマピケティはこれを

 

r > g 

 

というシンプルな公式で示した。私自身は資本主義がどうとか、語るつもりはないし、資格はない。だがタックスヘブンがある世界というのは、強さという観点で見ると「制約なき強さ」を認めるゲームに見える。その意味で多様性を殺す方向に進むのは間違いないと思うのだ。

 

単一指標による強さを求めるのであれば、「スピードを極めること」しかない

 

さてここまで「ジョジョ」と「ハンターハンター」を、あたかも多様性を褒め称える漫画かのように、語ってきた。だが、ある時、私は改めて衝撃的な真実に気づいてしまった。それは

 

 空条承太郎と、ネテロって、結局、同じじゃないか?

 

ということだった。2つの漫画を知らない方にも説明すると、この両者のキャラクターは、各漫画における最強のキャラクターとして描かれている。空条承太郎ジョジョのキャラクターであり、ネテロはH✕Hのキャラクターだ。そしてこの両者に共通する強さはなにか。それは

 

 最速のスピードを持っていること

 

である。2つのキャラクターは圧倒的に「攻撃のスピードが速い」のだ。空条承太郎は時を置き去りにするスピードで敵を攻撃できる。一方でネテロも、音を置き去りにするスピードで敵への攻撃ができる。つまり私が両者のキャラクターから共通点として感じたのは

 

 「スピード」だけは全世界で通用する

 

ということだった。だから、もしもネテロが、ワンピースに出ても、ドラゴンボールに出てもおそらく最強になりえる可能性が高い。「スピード」という概念は、どんな世界、どんな時代でも存在するからである。つまり世代間を超える意味で強くあるために、生命体が投資すべきなのは

 

 「多様性」と「スピード」

 

この二点に集約されるのではないかと感じるのだ。

 

最後に:

 

そろそろ終わりにしたい。

 

何がいいたいのか? 

 

それは

 

—   現代の社会はありもしない「第四の“強さ”」を求め、迷走しているのではないか?

 

ということだ。資本主義社会の中で勝ち抜いたトランプの登場で、移民の国として多様性を持ち合わせてきたアメリカは、むしろ多様性を排除する方向へ進んだ。人々は「強さ」を感じる一方で、「その“強さ”への違和感」を感じ始めた。その正体とは、我々がありもしない「第四の“強さ”」を目指しており、迷走していることへの違和感ではないかと感じるのだ。言い換えれば我々はジョジョが起こした革命を忘れ、再度、「ドラゴンボール的強さの時代」に逆進しようとしているのではないか、と感じるのだ。

 

さて最後に改めて問いたい。

 

 あなたにとっての「強さ」とは一体なんなのか?

 

……私は少なくともスカウターを壊すことではない、と思うのだが。

———— 

この国に「希望」はある。だが、「うまく語れない」、それだけだ。

 

「この国には何でもある。だが、希望だけがない」

 

村上龍はかつて著書の中でこう語った。出版から10年経った今でも、この言葉は日本経済を的確に表しているといわれる。

 

だが、私は違うと思う。

今の日本経済を描写するとしたらこうだ。

 

  • この国に「希望」はある。だが、全ての人がうまくは「語れない」だけだと。

 

これを理解するには、まず国を動かす4つのエンジンについて語る必要がある。

 

 国は「4つのエンジン」で動いている。

 

国や会社といった、全ての“有機的な組織”は「4つのエンジン」で動いている。

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 ・経済的価値の追求……「より金持ちになる/餓死したくない」というような経済的な価値を増殖・修復させるためのエンジン

・民族的価値の追求……「コミュニティの中で尊敬を得る/組織の中で、孤立したくない」というような民族としての価値を増殖・修復させるためのエンジン

 

国や会社といった“マクロの組織”も結局のところ、個人(ミクロ)の集合体でしかない。そしてほとんどの人間は「金持ちになりたい①」し、「貧困を抜け出したい②」し、「コミュニティ内の尊敬を受けたい③」し、「村八分を避けたい④」。なぜならこれらは全て「生物として生き残り、繁殖する可能性」にダイレクトに直結しているからだ。

 

そして個人の集合体である「国のアクション」も、この4つのエンジンを使って説明できる。アメリカを見てみたい。

  

アメリカは今「増加」から、「修復」へ舵を切った。

 

思えば、アメリカは「経済」と「民族」の両輪のエンジンを使って、うまく国を成長させてきた。

 

例えば、“南北戦争”は、北部と南部に分断していたアメリカにおける民族的な価値の「修復」であると同時に、「奴隷を使った農業」と「近代的な工業」の経済的な対立の統合作業でもあった。—①

 

あるいは、2001年から始まったアメリカ(がいうところ)の「テロとの戦い」は、「石油」という経済的な価値を狙った行為でありつつ、そのエネルギーとして使われたのは「アメリカイズムの布教活動」だった。アメリカ的な「民主主義・資本主義が善である」というものだ。—③

 

そして今。時は流れ、2017年、トランプ政権が語る、“Make America Great Again(もう一度アメリカを偉大に)”というフレーズは「アメリカ人が思う、アメリカ”民族“としての誇り」を呼び起こす強烈なエンジンとして活用されているのは間違いない。—④

 

私個人として、アメリカ経済の良し悪しを論じる気は全くないし、資格もない。ただ言いたいのはこうだ。

 

  • 国や組織のほとんどのアクションは「4つのエンジン」で説明できる。

 

 

組織はどこかで必ず、「民族的価値」を追求しはじめる

 

4つのエンジンはそれぞれが相互に結びついているが、最も大事なのは「経済」と「民族」の両輪をタイミングよく使うことにある。

 

その理由は「経済のエンジン」には頭打ちがくること(逓減効果)にある。分かりやすくいうと、普通の人は、一定以上お金を持つと「それ以上はそんなにお金を求めなくなる」のと同じ理屈で、卑近な例だと、年収が800〜900万円以上になると年収の増減が幸せ度と相関しなくなるといった類の話が分かりやすい。もう少しマクロの観点では、内閣府が出している「幸福感の推移」と日本GDPの推移を見てみれば分かる。

 

いずれにしても、一言でいうならば

 

「経済的に豊かになると、組織は“経済のエンジン”だけでは動かなくなる」

 

ということだ。裏を返せば「民族のエンジン」が必要になるのだ。

 

ちなみに、この仕組みは国という組織に限らず、企業も同様だ。組織は一定以上豊かになると「自社のDNAを、他の企業へ拡大」しはじめる傾向にある。つまり「組織を強くすること自体」に動き出すのだ。極論をいえば、“M&A”すらも、自社の組織を大きくするという意味で「民族的価値の増加」だと解釈できる。

 

 

「エンジンが全て止まった」。それが、今の日本。

 

では、今の日本はどういう状態なのだろうか? 

 

結論からいうと、今の日本は「全エンジンが止まりつつある状態」にある。

 

高度経済成長期までの日本は分かりやすかった。第二次世界大戦で経済的にも民族的にも大ダメージを受けた日本は修復作業を急ぐ必要があった。我々は、より豊かになることが必要であったし、その後の高度経済成長期は「Japan as No1(日本はNo1である))の証明作業でもあった。常に「経済」と「民族」の両方のエンジンが動いていた。

 

しかし、経済的に豊かになった今、日本は「経済のエンジン」も「民族のエンジン」も止まりつつあり、もう一度エンジンをかけ直すことが必要になってきたのだ。

 

その意味で「東日本大震災」は我々の価値観を見直す機会になった。東日本大震災に見せた日本人の一致団結の姿勢は、まさに「民族的価値の修復活動」だった。あの自然災害は単なる「物質の破壊」ではなく、平和に暮らす「日本人」という民族への攻撃だった。そして我々は、破壊されたものを、修復しようと死力を尽くした。「経済のエンジン」と「民族のエンジン」が再びドライブしたのだ。

 

 

宗教がないことが、ここへきて「日本失速」のボトルネックになった

 

だが、震災は常に起こるわけではないし、当然それを誰も望まない。

大事なのは、“平時”において日本のエンジンを動かしてくれるものはどこにあるのか? ということだ。

 

本来、そのキーは「宗教」にあることが多い。

 

言わずもがなだが、「宗教」は民族的価値と極めて強い関係を持つ。というか、ユダヤ教のように、そもそも民族であるためには「特定の宗教」に所属している必要があることも多い。そして宗教は「民族のエンジン」に大義を与え、国を強く動かすことも多い。

 

だが日本人で「自分の宗教」を認識している人は極めて少なく、つまり「宗教」を軸にした民族のエンジンを持っていないのだ。つまり、この状態、「平時のエンジンがない状態」こそが、村上龍が「この国には希望がない」と語った日本の状態だと感じるのだ。

 

 

エンジンがないと、「変化をおこしにくい」。それが問題

 

では、「民族のエンジンがないこと」の、何が問題なのだろうか?

 

結論からいうと「変化を起こしにくいこと」にある。

 

より具体的には「労働環境の変化を起こしにくい」のだ。そもそも「労働の価値観」は文化的価値に紐付かない限り変革しえないからだ。

 

歴史を見てみよう。

 

かつて、マックス・ヴェーバーは著書の中で、カルヴァン派キリスト教の一派)の間で近代資本主義が発達した背景を語った。彼ら(カルヴァン派)が提示した「労働や財産を善とする」という概念は、それまでの「労働の価値観」を劇的に変化させた。具体的には「富を増やすことは、いいことだ」という価値観への転換を起こした。結果、「資本主義」の考えは爆発的に勢力を広げた。

 

そもそも、(上述の通り)経済的エンジンは一定以上豊かになると、それ単体ではワークしづらい。そのために、大義名分に近い別のエンジンが必要になる。これをあえて曲解して語るのであれば、「宗教を背景にするような強烈な民族的価値と結びつかない限り、変化を起ここしにくくなる」といえる。

 

だから、現状の日本で「働き方改革」だけを唱えても、人々は動くわけがないのだ。

 

では、すべてのエンジンが止まりつつある日本はどこに希望を見出すべきなのだろうか。答えは「経済」と「民族」がクロスする部分だ。

 

 

日本が挑むべきなのは、LとGの戦いではなく、NとSの戦いである

 

最近のマクロ経済は「ローカル(L)」と「グローバリズム(G)」という対立軸で語られることが多い。「ローカル化」とは、国内や地域を第一とする考え方であり、「グローバリズム化」とは、国境を越えた世界展開を第一とする考え方である。だが、私が個人的に思うのは、現代の対立は「ローカル(L)とグローバル(G)」ではなく「NとS」にあるということだ。

 

ここでいう

・Nとは「農耕民族」

・Sとは「狩猟民族」を指す。

 

 

かつて、私がトヨタ自動車に取材した時に印象的な話があった。

 

いわく、トヨタが世界に証明しようとしているのは「農耕民族としての価値」だというのだ。トヨタは現地に工場を作ることで有名だが、その理由はまさにここにある。トヨタの「KAIZEN」と「地産地消」という考えはその国の富の総量を増やす。例えるなら「そもそもの100のパイを、110にする。その上で、55ずつ分け合う」という考え方になる。一方で、欧米系に代表される「狩猟民族的な考え方」は、100のパイを奪い合うという考えだ。自分のパイを50から55に増やしたければ、誰かから5を奪うということになる。

 

言い換えれば、「トヨタ」というブランドが証明しようとしているのは、

 

「日本企業が来ると、国のパイが増え、全員が豊かになる」

 

という農耕民族的な生き方だというのだ。

 

 

「農耕民族として、長期的に正しいことをする」という勝ちパターンから外れた日本

 

思い返せば、何もこれは、現代の話だけではない。よくよく考えれば、松下幸之助の「水道哲学」も農耕民族的(N)の考え方に近かった。松下幸之助は、かつて白物家電が高価で多くの人の手に届かなかった時代に、蛇口をひねれば水が出るように「当たり前に人々の手に家電が届くこと」を目標にしていた。それはパイを奪い合うという狩猟民族の考え方ではなく、極めて「農耕民族的な考え方」だ。

 

そして私が感じるのは、歴史を振り返り、日本が真に尊敬され憧れられるときはいつも「農耕民族として長期的に正しいこと」を目指しているときだったと感じる。つまり、みんなで豊かになるというNの考え方で動いているときだ。しかし、いつしかその思想はなくなり、経済が「単なるグローバル化か、ローカル化か」で語られるようになり、日本の勝ちパターンから外れてしまったと感じるのだ。

 

 

希望とは、意志だ。

 

そろそろ終わりにしたい。

 

もしも日本が世界に対してリーダーシップを発揮するとしたら、その活躍の場はLとGの対立軸にはない。NとSの戦いにこそあると思うのだ。それはこれまでパナソニックトヨタが世界に証明してきた我々の民族的な考え方に近い。

 

具体的には

 

「日本企業がくると、パイが大きくなる」

 

という農耕民族的な生き方。これを今こそ思い返し、世界に対してリーダーシップを取るべきだと思う。

 

もちろん我々がそうすべき理由はない。希望とは事実ではない、意志でしかないからだ。しかし、だからこそ、意志を示す人物が必要だと感じるのだ。

 

 

END

 

 

北野唯我(KEN)

(株)ワンキャリアの執行役員兼HR領域のジャーナリスト。主な記事に『ゴールドマンサックスを選ぶ理由が僕には見当たらなかった』『田原総一朗vs編集長KEN:大企業は面白い仕事ができない、はウソか、真実か』 『早期内定のトリセツ(日本経済新聞社/寄稿)』など。

 

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DeNA、Livedoorという天才が新卒に犯した「功罪」

  

昨今、「日本の労働生産性が下がっている」という論が盛り上がっている。

 

これに対して私が思うのは、運命は10年前から始まっていたということだ。より具体的に言うとこうだ。

 

ー「LivedoorDeNAという天才が、資本市場で勝った瞬間に、その運命は決まっていた」

 

優秀な学生100人がマッキンゼー・BCGにいても、たかだか100億円程度の産業インパクトにしかならない

 

産業には2つの種類がある。1つは“労働集約型”産業と呼ばれ、「人間の労働力」に頼る割合が多い産業を指す。例えば、マッサージ店や美容室などが分かりやすい。付加価値のうち、「人」が大きなウェイトを占める産業だ。

 

もう一つは“資本集約型産業”と呼ばれ、これは「機械やシステム」に頼る割合が多い産業を指す。例えば、自動車メーカーのようなものだ。もちろん「人」も大事だが、「資本」が大事な産業だ。

 

そして日本の労働マーケットの問題の1つは

 

・優秀な人々が、労働集約型のマーケットを目指しすぎ

 

ということだ。具体的な一例は、「コンサルティングファーム」だ。

 

過度なコンサル人気が、日本の生産性を停滞させている

 

そもそも、上位校から人気の“コンサルティングファーム”というのは報酬形態が1時間当たりX万円という形で決められる、極めて「労働集約型」の産業だ。そして「生産性」という観点でみたとき、優秀な学生がこれを目指すのは日本にとって致命的にマイナスだ。

 

なぜなら、労働集約型産業には

 

・一人あたりの上限(キャップ)が設定されており、スケールしにくい

 

という傾向があるからだ。

 

例えば、コンサル業界に100人の優秀な学生が流れたとしよう。一人あたりの年間売上は(多く見積もっても)0.5~1.5億円程度*で、間接効果まで含めたとしても日本経済に与えるインパクトはたかが知れている。というかそもそも、投資家や経営レベルの人間からすると、外資コンサルの仕事は本質的には経営企画のアウトソースであるため、“外注費の最適化”でしかない。つまり

 

  • 間接効果を見積もっても、たかだが100億円のインパクトしかない産業に優秀な人間がこぞって集まろうとしていること

 

これが日本の労働生産性を下げている理由の1つである気がしてならないのだ。言い換えれば、優秀な人間こそ、事業を作る側に行かなければ、日本全体の「生産性」など大きく改善するわけがないのだ。

 

*(参考)上場コンサルの一人当たり売上(FY16)……NRI、0.39億円/人。シグマクシス0.28億円/人。

 

(ちなみに、こう言うと、コンサルの人間から「支援先の企業の改善まで含めると……」という声が聞こえそうだが、このレベルまでコンサルティング出来ている人間というのは、日本のマーケットにおいても数名〜数十名程度と知れている。ほとんどは「パワポを作っているだけ」と先に返しておきたい)

 

優秀な学生が「行く会社がない」、これが日本の労働マーケットの課題

 

では「求職者が愚かだ」と責められるかというと、答えは「ノー」だ。なぜなら労働マーケットにおける本当の課題は「優秀な若者が、他に行く場所がない」ことに起因しているからだ。

 

例えば、学生に人気の総合商社はどうだろうか? 確かに商社は投資ファンドとしての面白みはあるが、はっきりいって優秀な若者からすると「スピード感が遅すぎる」し、国内の広告代理店やメーカーはもはや完全なる成熟産業だ。そうなると選択肢は「投資銀行」くらいしか思いつかないが、投資銀行は年間採用人数が少なく、求職者の就職ニーズを十分に受け止められるマーケットボリュームがない。

 

つまり

 

「じゃあ、外資コンサル以外に、どこ行けばいいの?」

 

と、聞かれても答えられない状態が、今の労働マーケットにはあるのだ。正確にいうと、別記事で論じた通り、IT産業が彼らのキャリアの選択肢に入っていないので、「そう思い込んでいる状態」なのだ。

 

では、「問題は、なぜか?」だ。

 

なぜ、日本でIT産業の人気が低すぎるのか。

 

それは端的にいうと

 

ー LivedoorDeNAという天才が、残した爪痕が大きすぎるから、だ。

 

天才という称号は「新しいゲームが生まれた瞬間に、そのルールを知り、一番に攻略した人」にのみ与えられる

 

天才論は古今東西様々あるが、どの時代でも通用する“天才”とは一言でいうと「ルールを知り尽くした人間」だ。世界を構成し、マーケットを支配しているルール、それを理解し尽くし、時に利用し、時に変革できる人間だ。

 

例えば、大学受験であれば、「受験勉強」のルールを一瞬に見抜き、資本市場であれば、マーケットに生じる歪みに乗り切り、ビジネスを拡大させることができる人間。しかもそれを模倣ではなく、誰よりも先にできる人間。それが、市場が存在する領域における“天才”なのは間違いない。

 

そして、LivedoorDeNAはこの意味で天才的だった。Livedoorは、親会社と子会社のバリュエーション価格のねじれを狙ったし、DeNAはPCからモバイルへの移行期を狙ってマーケットに参入した。だが、彼らは天才がゆえに、爪痕も残した。しかも、悪い方向にだ。

 

それが、「IT=何かやましいことをやっている」というイメージだ。

 

2000年代から一部ブラック企業によって「給料が安く、激務」と思われていたIT産業のイメージに、一連の不祥事により致命的な一撃を与えたのだ。この時から、日本の労働生産性が低くなることは、運命づけられていたように思えるのだ。

 

「ITベンチャー=ゲーム」という思い込み

 

もちろん、その後も回復するチャンスは何度もあった。

 

だが、その後の流れも悪かった。2010年代以降に資本市場の中で成功し、メディアに露出したIT企業はいわゆる「ゲーム」の会社だった。私自身も若い頃ゲームが好きだったので、ゲーム自体の価値は否定できない。だが、これまで積み重ねてきた負のイメージを改善する方向には進まなかった。

 

とあるアメリカの友人(シリコンバレーで働いていた)は、その状況をこう表現した。「俺たちはITを使って世界をよりよく変えようと思って起業しているのに、日本はゲームかい?」と。

 

確かに、任天堂のようにゲーミフィケーションの技術を使って社会的課題を解決しようとしてる企業も一部はあるが、ほとんどのゲーム企業は社会的尊敬を受け入れやすいとは言いづらい。「ゲーム会社=IT」となってしまった瞬間に、日本の労働生産性が下がるという、勝負は決まってしまったのだ。言い換えれば、「IT企業」はトップ層の若者たちのファーストキャリアとして認知されなくなったのだ。

 

求められるのは「公益性」を理解しつつ、資本市場で勝ち抜くIT企業。

 

では、僕らはどこに期待を持てばいいのだろう?

 

あえてスタンスをとって語るのであれば、本来はリクルートホールディングスが適任だったと私は思う。国産の会社であり、優秀な人間も極めて多いリクルートは常にマーケットのねじれを利用し、社会をこれまで前進させてきた実績がある。だが、分社化した影響もあり、採用ブランドはかつての輝きは薄れている。現に上位校向けのランキングでも、かろうじて上位である43位と、優秀な学生をアトラクトしきれていない。

 

何が言いたいか?

 

マクロの観点から見たときに、「日本の生産性」を高めるために本当に必要なのは

 

「公益性」を理解しつつ、資本市場で勝ち抜くIT企業。

そして、それを作り出す次なる天才

 

そう感じるのだ。